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メメント・モリ、あるいはピアノにかんするエトセトラ

私が人生で出会ったもの・考えたこと

現代奏法のメモ書き

ピアノ奏法に関する私論

先日、現代奏法のレッスンを受けてきた。

比較的高い椅子に座っていくつかの音を弾いたのだが、私のは手の使い方がおかしいという話になった。

先生がお手本で鍵盤をひょいっと弾くと、音がポーンと遠くまで飛んでいって、「こんな感じで打鍵してください」と仰られるのだが、同じようにできす、いったいどこが違うのだろう??という感じであった。

そして昨日の練習で、高い椅子での基礎練サイクルが一巡して低い椅子に戻した途端、まるでジグソーパズルのピースがカタカタと音をたてて揃っていくかのように、何が起きていたかが頭の中で組み上がってきた。

(1) 高い椅子の場合

肩から先の腕の重さが指先にのる。

脱力した時の手と鍵盤の均衡点のようなものが、鍵盤を底まで押してそこからの反作用の力を指で支えている状態となる。この状態を標準系として、ここ目がけて弾いている感じになる。

この状態で弾くとき、離鍵は打鍵と別動作である。

レガートで弾くとは、指にかかっている重さの移動になる。

(2)  低い椅子の場合

腕の重さは、半分は肩にぶら下がる。

脱力した時の手と鍵盤の均衡点は、鍵盤の戻る力によって元の位置に戻っている鍵盤に指が乗っかっているような、あるいは手がぶら下がっているような状態で、これが標準となる。この状態で打鍵すると、鍵盤に力を加えるのは一瞬であり、手を鍵盤に放り投げるような感じになって、遠くまで飛ぶポーンという音が出る。

この状態で弾くとき、打鍵の終了動作=一瞬かけた力を抜くのが離鍵になる。

ノンレガートで音が切れた状態が普通で、だからこの弾き方でレガートで音をつなげるのは、一番最後の練習課題になる。

ヴィルサラーゼのシューベルト:ソナタD.664ほか(Live Classics)

今日聴いたCD

私が指摘するまでもなく、「美しさ」には、変換(写像)によって美しさを保つものと、失われてしまうものがある。ある種の文学作品は翻訳に耐えられるだろうが、翻訳したとたんに壊れてしまう作品がある。また、ある種の絵画は縮小コピーされて美術の教科書に載っても求心力を保つが、その良さを消失してしまう絵もある。音楽作品でいうと、バッハやベートーヴェンは楽器や楽譜の読み方が変わってしまってもその偉大さは残るが、オリジナル楽器で演奏されて初めて良さが分かる作品もある。

なぜこんな事を考えてしまったかと言うと、エリソ・ヴィルサラーゼの近年の録音が全てライヴ録音しかなく、取られた音の状況が著しく異なるのである。そして私の聴いた限りでは、ヴィルサラーゼの弾くシューマンショパンは録音状態が多少悪くても何がしかの感銘が残るのだが、シューベルトでは消失してしまうのを体験した。

この盤に収録のD.612、D.924、D.664は1997年12月22日の録音、D.915とD.946は1998年1月4日の録音である。前者の内のD.664の2楽章までは、ひょっとするとリハーサルを録音したものではないかと思うのだが、ヴィルサラーゼの音色の美しさをマイクが完全に捉えていて、その祈りに満ちた演奏に感動する(このライヴは同年に亡くなったリヒテルに捧げられている)。ところが、3楽章(観客のノイズが有り、明らかにライヴ)と1998年の演奏では録音状態が一変し、大変残念なことに、魅力の大半が消失してしまうのだ。

ヴィルサラーゼの録音は、大曲を弾いた盤しか持っていないのだが、私の聴いた中では、このシューベルトの前半の録音状態がベストであった。こういう事態を目の当たりにすると、このピアニストの録音をすべてかき集めて、徹底的に仕分けしたい誘惑にかられる(いつもの中毒症状だ…)。

音楽の手帖~ピアノとピアニスト(青土社)

読書

"もうひとつのピアノ"の領家さんがblogで取り上げられていたこの本を読んでみた。1980年の初版なので大昔に書かれたものなのだが、一読して感じるのは、この時代は音楽評論が生きていたという事である。本書では音楽評論家と呼ばれる方々がピアニストをまな板に載せて、しばしば奏者本人には思いもつかないような切り口で持論を展開していて、その内容がどの程度に妥当であるかとは別に、豊かさのようなものが確かに存在している。

目下、いちばん面白かったのは遠山一行さんの評で、ブレンデルを(独墺系の伝統的な演奏スタイルを古典とするなら)擬古典主義でピアノ界最高のマニエリストと言い切っているところである。そして遠山さんは"マニエリスム"を次のような意味で使っている「伝統的な演奏スタイルが奏者の自然な表現行為として発露されていた時代の後になって、彼ら後発の奏者は音楽学校で客観的な知識を学び、レコードを聴きくらべ、そして彼らと同じくらい過剰に情報を持つ聴衆の前で自分の演奏を主張しなければならない。演奏は知的な意識による分析と解釈の積み重ねになり、演奏本来の自発性と創造性は失われるが、それでも才能のある音楽家は自分の演奏に固有の意味を与えることに成功するだろう」(やや自由に意訳)。

ブレンデルの演奏を聴いていて、グルダの言うところの「博物館の案内人」的な状況を僅かでも感じるとすれば、この遠山さんの言葉は、その原因を見事に言い当てている。

ピュイグ=ロジェの南ヨーロッパ音楽紀行・バロックの世界

今日聴いたCD

昔、ピュイグ=ロジェのピアノ教本を立ち読みしたことがあるのだが、そこにはあまり有名でないバロック作曲家の音の少ない小品がたくさん取り上げられていて、他の教本と比較して異彩を放っていた。

ピュイグ=ロジェは、チェンバロを念頭に書かれたバロック作品をピアノで演奏することに関して最も積極的な音楽家のひとりであったのだろうと思うが、このアルバムは最晩年に録音された、この奏者の数少ない独奏曲録音のひとつで、フランス・イタリア・スペインのバロック小品が20曲弾かれている。

収録曲中まず面白いのはデュフリで、楽想の展開に次に何が出てくるかわからないような面白みが有り、ギャラント様式というよりも多感様式に近いと思う(しかし私はデュフリの最後の曲集の楽譜を印刷して少々弾いてみたのだが、ピアノで弾いてしまうと何かが取り落とされると感じた)。

次にチマローザソナタ。国内盤で関孝弘さんのピアノによる全集が出ていて、打鍵の浅いこのピュイグ=ロジェの演奏と深めの関さんのピアノで、音の立ち上がり方を聴き比べてみるのが面白い(私見では、モーツァルトの変奏曲集と並んで一番難しいピアノ曲集だと思う)。

そして私にとって最大の発見は、セバスチャン・アルベロのソナタであった。34歳で夭折したスペインの作曲家なのだが、和声進行と転調が見事で、個人的にはソレールソナタよりも聴いていて面白い。

「公共の福祉」に込められた思い

徒然なる日記

「公共の福祉」という言葉は(「教育勅語」という言葉共々)、ああ、そういえば受験勉強で出て来たよね~くらいにしか憶えていなかったのだが、ここ数日間、例の問題に興味をもって色々と調べたところ、そこに込められた先人の思いに気がついた。

私は「公共の福祉」を、"多数の人間が彼らに共通する人権を行使しようとした時に、その結果、別の個人の人権が脅かされる事態になる時には行使を制限できる事"と受け取った。

これは防波堤である。

鈴木智博さんのライナーノーツ

読書

「サバテール」という名前と、いったいどこで巡り合ったのか気になって昔の書籍を色々と見返しているうちに、ひょっとすると新星堂「アルフレッド・コルトーの遺産」シリーズの解説書ではないかと思い至った。確か何巻かの解説に、購入当時ほとんど知らなかったピアニストの名前が列挙された個所があったのを思い出したのだ。

それは、vol.6のシューマン集Ⅰの解説書で、鈴木智博さんというコルトーの研究者もしくはレコード・コレクターの方が執筆されたものである。

残念ながらサバテールの名前はなかったが、コルトーの教育者としての功績をたたえた文章で、代表的な弟子としてこれだけの名前が挙がっている。タリアフェロ、ルフェビュール、ギューラー(比較すべきピアニストとして更にセルヴァの名前が加えられる)、ハスキル、メイエル、カゼッラ、マルケヴィチ、レヴィ、ソロモン、リパッティ、フランソワ、チアーニ、ペルルミュテル、ハイドシェック。当時まだ駆け出しだった私にとっては半分以上が初めて聴く名前で、嬉々として聴いてみたいピアニストの名前リストに加えたのが、まるでついこの間のように思い出される。

それから20年以上経ち、私も当時よりは多少ものを知るようになったのだが、この機会に鈴木さんのライナーノーツを読み返して、その造詣の深さに改めて感服してしまった。鈴木さんは遺産シリーズのVol.6以降のライナーを書かれているようなのだが(私は"遺産"を全巻は持っていない)、今回読み直して勉強させて頂いたのは、vol.7のシューマン集Ⅱ、コルトー以前のシューマン弾きを紹介するくだりである。

・まずクララ・シューマンの弟子筋でファニー・デイヴィスとアデリーナ・デ・ララ(私は全く聴いた事が無い。確かPearlレーベルにクララ・シューマンの弟子たちという箱ものセットが有った筈である)。

・シンギング・アプローチ・トゥ・ザ・ピアノと呼ばれたカール・フリードベルク(ここに名前が書かれているとは一切気づかなかった。この呼称は知らなかった!)

・ゴドフスキーとホフマン(この二人はいろいろ復刻されている)

・エテルカ・フロイント(これも、ここに記載があるとは思わなかった)には、実はV.フリーダという偽名で「幻想曲」の録音がある!

…などなど、現在の私でさえ足元にも及ばない。おそらく先日に本を読んだ佐藤泰一さんに比肩するくらいのマニアの方なのであろう。

ところが、この方の事をネットやAmazonで検索しても、まとまった情報が一切出てこず、出版活動などはされていないようであった。

そこで、頂いた"贈り物"と個人的な思い出を、細やかながらここに記そうと思った次第である。

ボロフスキーの1953年パリ・ライヴ(melo)

今日聴いたCD

念願かなって(あるいは、ネット試聴できないCDなので清水の舞台から飛び降りるつもりで)アレクサンダー・ボロフスキー(1889-1968)を初めて聴いた。

予想だにしていなかったピアニズムが聴こえてきて、思わず笑ってしまった。

ロシアのピアニストで言えば、間違いなくギンスブルクやオボーリンに通じる浅い打鍵を多用する弾き方なのだが、もうひとつの決定的な特色は可能な限りペダルの使用を抑制していることで、特に、浅いペダルを踏んでも良さそうな個所を徹底してノンペダルで弾いている。その結果聴こえてくる音の感覚は、ギーゼキングのそれに酷似している(ただし、ギーゼキングのように速いテンポで弾き飛ばしてしまうような癖は無い)。

そして大変残念なことに、こういう弾き方をする奏者は、モノラル録音で録られると、その魅力が一切取り落とされてしまう。ステレオ録音が残っていないものだろうか。

反ったMP関節を戻す筋肉

ピアノ奏法に関する私論

一昨日に練習をしていて気付いたのだが、私の右手は、MP関節が反り返った状態から元の伸びた指に戻す時に使う筋肉が弱い。しかもこの時に使う筋肉は、MP関節が出っ張って山をつくった状態で手の重さを支えるやり方では、あまり鍛えられないようだ。

そこで、こんな感じの指トレメニューを加えた。

(1) 椅子に座り、鍵盤と同じ高さの机を前におく。

(2) 手のひらを机の上にべったりくっつける。

(3) 指をべったりつけたまま、手首を奥へ突き出すように上げると、MP関節が反ってへこむ。

(4) この状態で、MP関節が戻る方向に指に軽く力を加える(思いきり力をいれると指を痛めるので注意)。

 

私のように、20歳までに中途半端にしか指が訓練されなかったアマチュアの場合、30歳を過ぎてもメカニックを向上させることができると思う。ただし、漫然と練習曲をやるようなやり方では無理で、自分の指のどこが弱いかを正確に認識して、そこを集中攻撃するようなやり方をしないと向上しないというのが、何となくの実感である。

サバテールのモンポウ:歌と踊り1-12番(Picap)

今日聴いたCD

スペインにサバテールという名手がいるという話を、随分昔に記憶していた(手元にある「200CDピアノとピアニスト」は1996年の初版だが、南欧のピアニストというページに名前が載っている。しかし私はこの本以前にどこかでこの名に出会っていた気がする)。

しかしながら、この奏者のCDを売り場で一切見かけた事が無く、私にとって幻の演奏家であり続け、名前はいつしか記憶の片隅に置き去りにされていた。

そんな最近、表題のCDを見つけたのは、ついこの間のこと。ラローチャの弾くモンポウの旧録音をAmazonで試聴していた時にたまたま出てきて、これはあのサバテールの録音ではないか!と衝動買いしてしまった。

いそいでネットで調べると、ローザ・サバテールは1929年生まれ。伝説のピアニストというよりもはるかに最近の奏者だが、1983年のアビアンカ航空機墜落事故で若くして亡くなっている。

一方、ここで演奏されているモンポウの「歌と踊り」は、彼の前奏曲集と並んで、いつか全曲指を通してみたいと思っている傑作集だが、私の聴経験はそれほど多くなくて、これまで全曲盤に近い形で聴いたのは作曲者自身のステレオ盤、ラローチャの最後の録音、ゴンサロ・ソリアーノの1-8番のモノラル録音しかない。

さて、ここに聴くサバテールのモノラル録音は、一聴してまずタッチの粒立ちの良さが耳を捕らえ、前述のうち誰に近いかと言えば間違いなくラローチャに似ている。両者の違いだが、サバテール盤は、まずモノラルという事もあり主旋律のタッチの粒が伴奏部と比して際立っているのと、踊りに当たる後半部でより一層情緒豊かに音楽を動かす事(しかしこれは、ラローチャがモノラル期に録音していたら同じ様になっていた気もする)、そして何より、和声進行に対する感度が一層きめ細やかであるように感じた。

なお、このCDがもたらしたもうひとつの巡り合いは、サバテールの早すぎる晩年まで師事していたと思しき日本人ピアニスト、領家幸さんという方が書かれた長編のblogを発見した事であった(領家さんは、残念ながら2013年ごろに亡くなられたようだ)。

回想の3.11

徒然なる日記

その日私は、たまたま休暇を取っていた。

午前中に区内の図書館にCDを漁りに行き、お昼にはアパートに一旦帰宅した。しかし、その日に限ってなぜか、午後に隣の区の図書館まで歩いて出かけたくなった。

地震にあったのは、国道を歩いている時だった。

地面が、まるで遊園地の振動アトラクションのように揺れた。

「ああ、東京は終わった…」と本気で感じた。

次の瞬間、車道に飛び出した。両脇のビルが崩れてくると思い、歩道にいるのは危険だと判断した。

もう少し揺れが強くなっていたら、ビルは崩れ、東京は壊滅的な打撃を受け、そんな未来が到来していても、いっさいおかしくなかったと思う。

しかし、揺れはおさまった。周りの建物は無事なようである。

この時点で私はどのくらい深刻な事が起こったかを正しく把握していなかった。とりあえず引き続き図書館へと歩いた。

歩きながら、出勤中だった妻に携帯電話から連絡をしようとしたが、一切つながらない。当時使っていたガラケーのニュースサイトで、大きな地震であったことと、津波警報が発令されたことくらいは確認できた。引け間近の日経平均は、笑ってしまうほど大きな窓を開けていた。

図書館に到着すると非常事態で閉館していた。いくつかのガラスが割れている。

とぼとぼとひき返しながら、帰りに地下鉄の駅前を通ると避難の人であふれていた。次の余震が来ないか心配している人を何人も見かけた。

アパートに帰って部屋を確認すると、ピアノの上に重ねて置いてあったCDがいくつか床に落ちた程度で、特に被害を受けた様子はなかった。

珍しくテレビをつけてみた。

私が津波を目撃したのは、まさにこの時である。

真っ黒い波が、逃げ惑う自動車を次々と飲み込んでいく実況映像であった。

まるで映画のようだ。しかし映画と決定的に違うのは、今まさにこの瞬間に、あの車を運転している人がいて、それが津波に飲み込まれているのだ。

「…そっちの方向に逃げてはだめです!」と解説している実況音声が、白々しかった。

 

この津波の映像と、その少し後に出た、江戸時代くらいの石碑がここから先は津波が来るから居住区をつくらないように戒めていたという話、そして一連の原発危機は、日本社会の有形無形の幾つかのものを雲散霧消させ、また幻想の産物へと追いやったが、私の中にある何かをも、確実にへし折った。私の中で一番深くとどめを刺されたのは、進化論的な歴史観だったように思う。

(続く…かな??)

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サン=サーンスの自作自演集(APR)

今日聴いたCD

"The piano G&Ts"というシリーズのvol.3で、ショーンバーグの「ピアノ音楽の巨匠たち」に記載のあるサン=サーンスの1904年と1919年の自作自演を聴く事ができる。

1919年の録音時、作曲家は83歳であったはずだが、運指に加齢による衰えはおろか苦労の後さえも一切感じられず、大変に驚いた。録音で聴くサン=サーンスのタッチの印象は、同じフランスの歴史的ピアニストの例でいうと、エドゥアルド・リスレを少し細くしたような感じである。

収録曲のうちop.104のワルツは、よほどお気に入りなのか、この1904年と1919年の2回の録音の他に、ピアノロールに残した演奏が少なくとも2つある。1つ目は1905年にウェルテ・ミニョン社に残したもので、他のロールとともにStainwayを使ってTacetが復刻。2つ目は1915年にエオリアン社に残した演奏の内のひとつと思われ、コンドンコレクションとしてBellaphon=DENONヤマハのC7を使って復刻している。

今回改めて同一曲を実際の録音とピアノロールで比較したところ、ピアノロールの方はどちらの演奏も速い運指が必要な場所で弾き崩しているように聴こえる箇所が散見されるのだが、録音を聴くと全くそんな事はない(特に1919年のは録音技術の進歩により細部の音の粒まではっきりと聴こえ、奇跡的な若さを保った指回りを感じる事ができる)。やはりここらへんがピアノロールによる限界のようだ。

いい音ってなんだろう(村上輝久)

読書

実はこの本に先立って、川崎市で行われた講演録+インタビューと思しき本を読んだ。内容的には結構被るところもあるのだが、おおいに楽しみながら読むことができた。

個人的に興味深かったのは、1967年のマントン音楽祭の調律を一手に引き受けてやっている様子をドイツの音楽評論家が新聞に記事を載せて村上さんが一躍脚光を浴びるのだが、この音楽評論がほぼ前文に近い形で訳されていて、その中にケンプがフランスでは30年ぶりにシューマンの謝肉祭を演奏して、それを同じくこの音楽祭に出演しているフランソワ、リヒテルとギレリスが聴きに行ったというくだりだ。

ケンプはフランソワとは深い親交があったようで、またケンプの自伝にはギレリス父娘とケンプ夫妻で一緒に写っている写真が掲載されているのだが、リヒテルとはどの程度面識があったのだろう?

この本で一番感動的な個所は、ピアノを前にしてジョルジュ・シフラの両脇に、村上さんともうひとり、文中には"辻君"としか書いていないが、世界的に著名な辻文明さんが3人並んで調整の相談をしている写真である(245ページ)。

ガヴリリュクのブラームス:パガニーニ変奏曲他(PIANO CLASSICS)

今日聴いたCD

アレクサンダー・ガヴリリュクは、彼が10代の頃にSACRAMBOWレーベルに入れた録音を聴いて以来、最も素晴らしいと思う若手ピアニストのひとりであった。鍵盤の底への衝突を避ける現代奏法をとりながらも、必要に応じて必要なだけの下部雑音を伴うフォルテを楽器から引き出すピアニズムの見事さは、まるでこれまでのソ連/ロシアのピアニズムの歴史を総括したかのような趣があった。

私が聴いた限りでは、この印象は2001年のデビュー盤から2011年にPIANO CLASSICSレーベルに録音したロシア物まで、一貫して持続していた。

ところが、この2015年録音の盤を聴いていると、タッチの感じが、どうも異なるのである。

感じたことを列挙すると、

・和音をフォルテで響かせる際に、ハンドペダル?(特定の低音のダンパーを解放して、強く共振させるやり方)によって響きを増強しているように聴こえる個所がある(以前はこのような事をする奏者ではなかった)。

・前の録音と比べて、聴き取れないほどの弱音を用いるようになった。これは、タッチの絶対音量が大きくなり、それに合わせてマイクが弱音のコクを取りこぼしているかもしれない(ちなみに録音場所はオランダにある教会で、2011年のCDと変わらない)

パガニーニ変奏曲や死の舞踏を旧録音と比較するとわかるのだが、以前の録音では、音楽が時間軸に合わせて強弱したとしても、主旋律をそれなりの深さと音量のタッチで弾いて、伴奏部を浅いタッチにするような、縦方向の響きのバランスを維持して弾いていた。それが新録音では、ピアニッシモのような箇所で、主旋律でさえも伴奏と同じくらいに音量を落としてしまうような弾き方になった。

 

全体として例えるなら、これまで室内楽だったような音楽のつくりが、交響楽に変わってしまったかのような印象を受ける。果たしてこれが録音状態による一過性のものなのか、それともピアニストの目指している方向なのか、次回作を買って確かめずにいられない。


プリマコフ・イン・コンサート vol.1(Bridge)

今日聴いたCD

長年抱えている疑問のひとつなのだが、ピアニストが本来持っているタッチの印象を、録音をいじることでどの程度変えられるのだろう?

むかし、レオニード・クズミンがRussian Discレーベルに入れた一連の録音を聴いたところ、ラフマニノフだけが異様に硬いタッチで録られていて、これが実際に硬いタッチで弾かれているのか、録音をいじっているのか、それともピアノが容易に固い音を出すように調整されているのか、私には聴き分けられなかった。

このプリマコフのライヴ録音を聴いて“クズミン問題”を思いだしたのは、例えば演奏されているラフマニノフソナタ2番で、明らかに強く弾きすぎているような衝撃音を伴った音が聴こえてくるからである。これが古いピアニストの録音であれば、まあ奏法が古いのだろうで片づけてしまうのだが、ゴルノスターエワに師事した若手ピアニストの録音なのだ。

残念ながら現在の私にも、この衝撃音が奏法に由来するものなのか、録音のされ方が悪かったのか、あるいはピアノの調整がおかしいのか区別がつかない。

もう10年くらいピアノ道を精進すれば、何か分かるようになるかも知れない…。

ヨッフェのショパン:ソナタ3番他(プロアルテムジケ)

今日聴いたCD

人が"クラシック・オタク"と呼ばれるまでになるとき、先ず作曲家で聴いて、次に演奏家で聴く(そして更に、自身で演奏を試みる!?)という道を辿るらしい。

私の場合も、これは中学生頃なのだが、まずショパンの独奏曲を集め出し、その時に買った中にヨッフェの前奏曲全集があった。

その後すぐに、私の興味は"ショパン弾き"に移り(ホロヴィッツとかフランソワだ)、そんな中でこの前奏曲全集はどこかへ消失してしまった。

それからウン十年経ち、名ピアニストを順番に聴いていったところヨッフェにたどり着き、改めてもう一度聴いてみたいと思ったのが、ついこの前の事である。

最新の録音をチェックしてみると、プロアルテムジケから2枚ほど出ている。日本のクラシック演奏家招へい会社の自主制作盤と思しきこのレーベルは、完全に国内限定販売であり、試聴が一切できない!かつてここでデームスのCDを買って半分くらいはずして苦い思いをした私にとって、このCDを買うのは完全な賭けであった。

しかし、トラック1に収められたバラード4番の冒頭7小節ほど聴いた段階で、私は賭けに勝ち、素晴らしい掘り出し物(?)を入手したと確信した。それほどこの奏者のソノリティ・コントロールが見事であった。

あらためて手元の本(ピアノとピアニスト2003)の項をめくると、1952年生まれのソ連の奏者で、ゴルノスターエワに師事したとある。確かにここに聴くヨッフェの演奏も師同様に世代不詳系?に感じられる。弱音を主体にした音楽づくりは現代奏法をとる若手ピアニストと同じく、ゴルノスターエワに比べると音量でのフォルテははるかに少なく、音楽の強弱を音量ではなく響きと表情で造形する。一方、個々の楽想のアティキュレーションにおいて個人的な感じ方の表出という点では若手の奏者ほど露骨でなく、全体をながめた時に、奏者の個性がショパンの音楽を超えて聴こえるようなことが一切ない。最近聴いた録音で例えると、リカルド・カストロがArte Novaに録れた端正すぎるショパンを、端整さはそのままに草書体で書き直したような演奏になっている。

果たしてこの演奏スタイルが近年の至芸なのか、最初からこういう音楽を持つピアニストであったのか、私はかつての前奏曲全集を、もう一度聴きたいと思った。