読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

メメント・モリ、あるいはピアノにかんするエトセトラ

私が人生で出会ったもの・考えたこと

ピアノ音楽の源流探索2017~はじめに

昨年末に読んでみたい楽譜を試算したところ約12000ページほどあったのだが、そのうちルネッサンスバロック期の作曲家で現在までピアニストによって開拓されていない作曲家(バッハ、スカルラッティヘンデル、ラモー、クープラン以外)の作品が、だいたい1600ページと試算した。

この領域の作品は、私の頭の中に名作マップのようなものが無く、まずそれを作るところから始めねばならないので、近現代の音の多い作品を譜読みするのとは別の意味で難易度が高い。

そこで今回、ざーっと曲聴きをして譜読みしたい作品を洗い出していく。

作品数の予想割り当てはこんな感じだ(この順で聴いていく)。

ルネッサンス・イタリアの作曲家とカベソン…100ページ

・イギリスのヴァージナル音楽の作曲家とパーセル…200ページ

・スヴェーリンクとシャイト…200ページ

・フレスコバルディ…200ページ

・イタリアとスペインのバロック作品…200ページ

・フローベルガー…100ページ

・ブクステフーデ…100ページ

ベーム・ラインケン・パッヘルベルテレマン…100ページ

・バッハの息子たち…100ページ

・フランスのバロック作品集…300ページ

この割り当ては2016年末に当時の音楽観をもとに考えたものであり、今回の曲聴きによって変わる可能性が大いにある。

ピアノ音楽の源流探索2017~フィッツウィリアム・ヴァージナル曲集に登場する著名な作曲家

フィッツウィリアム・ヴァージナル曲集

・楽譜(IMSLP):http://imslp.org/wiki/Fitzwilliam_Virginal_Book_(Various)

 

ブル(1562/3-1628)

手元に2014年ごろにダウンロードした2冊分の作品選集があるのだが、サイトが見つからなかった。

まずchromatic pavane and galliard と fantastic pavane and galliardが作品として大きい。

何作かあるin nomine は7番と9番が、手元の録音集では良く弾かれている。

他に、The king's hunt、spanish pavane 、小品だがduchess of Brunswick's toyとDuke of Brunswick's Alman。

 

ファーナビー(1563-1640)

4部作(?)のfarnaby's dream, his rest, his humour, farnaby's conciet。

 

フィリップス(1560/1-1628)

pavana dolorosa と galliarda dolorosa

ピアノ音楽の源流探索2017~バード(1543-1623)

バード(1543-1623)

(1) ネヴィル夫人の曲集

全作品がバードのもので、有名どころが非常に良くまとまっている。

・楽譜(IMSLP):

http://imslp.org/wiki/My_Ladye_Nevells_Booke_of_Virginal_Music_(Byrd,_William)

・音源:ホグウッドが全曲録音している(DECCA)

まず曲集の真ん中ほどにまとめられた数曲のpavan and galliardが興味深く、全部読んでみたい。

他に同曲集の中の作品で良く弾かれるものは、

・my lady nevell's ground

・ut re mi fa sol ra

・all in a garden greene

・hughe ashtons ground(グールドがピアノで録音している)

・voluntary  for my lady nevell(〃)

・sellingers round(〃)

あたりだろう。

 

(2) フィッツウィリアム・ヴァージナル曲集

バードの作品も多数収録。曲が多すぎて探すのに骨が折れる。ネヴィル夫人の曲集と結構被る曲がある。

・楽譜(IMSLP):

http://imslp.org/wiki/Fitzwilliam_Virginal_Book_(Various)

・音源:ホグウット(DECCA)の選集が、手元の日本盤では曲の通し番号がついており探しやすい。他にソウター(The GIFT of Music)、マーヴィル(aeon)など(何れも選集)

重複していない作品でよく聴かれるのは、

ダウランドのLachrymae編曲

・Fantasia2番

・John come kisse me now

・Ph.tregian pavana and galliard

など。

ピアノ音楽の源流探索2017~ルネッサンス・イタリアの諸作曲家とカベソン(1510-1566)

ルネッサンス・イタリアの鍵盤音楽

メルーロ(1533-1604)のtoccataあたりから聴き出したのだが、ルネッサンス・イタリアの鍵盤音楽をピアノで弾こうとした場合、面白いのはむしろ対位法を駆使したricercarであるという考えに取りつかれた。

最近発売された、A.ガブリエリ(1510-1586)の鍵盤音楽全集を未入手のため、一旦休止。

 

カベソン(1510-1566)

・楽譜(IMSLP):http://imslp.org/wiki/Keyboard_Music_(Cabez%C3%B3n,_Antonio_de)

・音源:グレン・ウィルソン盤(NAXOS

Obras de Musica に含まれる、それぞれ数曲あるtientoとdiferenciasが興味深く、弾いてみたい候補である。最も有名な「騎士の歌による変奏曲」がこの中に含まれる(diferencias sobre el canto llano del Caballero)。

現代的な演奏スタイルってどんな風だろう?

最近考えることがあったので、簡単にまとめておきたい。

少なくとも私が録音で聴いた限りでは、ピアニストの生年で大雑把に3つに時代分けしたい。

(1) ~1920年
戦前の、多様な弾き方が百花繚乱していた世代
(2) 1920年~1955年
戦後の、原典主義的なピアニズムの世代
(3) 1955年~
現代

…と、こんな具合である。

では(3)を聴いたときの特徴、即ち「この人は現代のピアニストに聴こえる」というのはどんな演奏だろうか?

・戦後の世代に比べて、緻密な音楽的表情の復活。これを戦前のピアニズムと比較したとき、特にリズム感の面白さをきかせる場合が多い。

・それを支える、控え目なペダリング

・それを支える、ノンペダルでも響きの豊かさを失わないための奏法や音量領域での演奏。

私のなかでは、こんな感じだ。
だから、より昔の時代のピアニストでも、上記のような弾き方に出会うと、「この人は時代を先取りしている」と感じてしまう。

高い椅子で練習してみて2つの発見(2)

【発見その2】ポジション移動がしやすい

ショパンの曲でしばしば要求されるポジション移動(op.10の練習曲でいうと1番や8番の基本音型)が、驚くほどしやすい。これは大きな発見であった。

その理由は恐らく、この椅子の高さで鍵盤に指を置いた時には、自然と、白鍵と親指の角度が水平から20度くらいになる為と思われる。

なぜ、親指がある程度立っていた方がポジション移動しやすいのか、良く分からない。

良くは分からないのだが、絶対に関係があると直感したのは、ショパンが生徒にピアノを教えた時、基本的な手の配置として、12345指を従来のCDEFG(白鍵のドレミファソ)ではなくEF#G#A#Cに置いて弾かせたという話である。

私の手に限って言うと、12345指をCDEFG(白鍵のドレミファソ)に配置した場合には白鍵と親指の角度が水平に近く、EF#G#A#Cに置いた場合には親指がある程度立つ。

実のところショパンは、この手の配置と、それが自然になされる鍵盤と腕の位置関係(つまり私の場合には、この高すぎるほど高い椅子)で弾かれることを前提として曲を書いたのではないかと思ってしまった。

それくらい、op.10-1が弾き易い。

私はこの事に気付いて、以後、日課になっていたop.10-1のリズム練習を、一切やめた。

高い椅子で練習してみて2つの発見(1)

これまで、ピアノを弾くときの椅子の高さは高い位置(手首の高さが肘と同じくらい)と低い位置(手首の高さが肘より若干高い)の2通りで、3週間交代で練習していた。

だが今回新たに、ロシア奏法を教えられている幾人かの先生がそろって推奨されている、かなり高い椅子で3週間やってみた。

それはどれくらいの高さかというと、上腕と前腕の重さを手首まででせき止めて支える為に、手首より肘が若干上にくる位置である。

手を水平に伸ばした時に左手の中指の先から右手のそれまで測ったら195cmあった私が、このポジションをとろうとすると、ピアノ椅子を一番上にあげてもまだ足りず、更に座布団を1枚敷かねばならなかった。


【発見その1】打鍵が深くならない

まず、自分でも不思議だったのは、指先に重さが乗せやすくなるため打鍵が深くなるのではないかと思っていたが、意外にそうならなかった事である。必死に鍵盤を弾こうとすると、ふわっと浮いてしまう感じになるのだ。

なぜこうなるか、理由を色々と探してみたのだが、現時点で一番腑に落ちるのは、雁部一浩さんの「ピアノの知識と演奏」の56ページ、"手首より肘の位置が高い状態で打鍵すると、打鍵の方向が垂直よりもやや斜めになる"という説明である。

この本は、この後"打鍵の方向が垂直になる、手首の高さ=肘の高さのポジションで弾くのが合理的である"と言う風に続く。

しかし私の実感では、手首より肘の位置が高い状態での打鍵は、逆に鍵盤の底まで勢いよく打鍵しようとするのが自然と抑制されると感じた。

実際、私にとって手首と肘の高さが同じのポジションは、いつの間にか"指トレーニング"のように弾いてしまう、一番危ないポジションである。


(続く)

kyushimaさんのCD聴き比べのページ

最近、ヤブウォンスキがショパンの練習曲全集の再録音を出したのを機会に、古い方の練習曲全集を買って聴いてみたところ大変見事な演奏であった。
その余りの素晴らしさに、そういえば昔、kyushimaさんと言う方が、この旧録音を大変高く評価されていたのを思い出し、そのサイトは今どうなっているだろうと覗いてみた。

もう20年近く前のサイトなのだが、嬉しいことに、まだ維持されていて、とても懐かしい(さすがに今読み直してみると古さを感じるが…)。

http://kyushima.web.fc2.com/cd/index.html

このページに初めて出会った頃の私は、現在のようにピアノが弾けなかった事もあり、「レコード芸術」に記事を書いている音楽評論家諸氏の意見の最大公約数をとったかのような"古くて長く生き残っている録音こそ良い演奏"みたいな価値基準で聴いていた。

そんな中で出会ったのが、kyushimaさんの評である。

この、コンクールの審査員が、奏者の名前を一切気に留めず自己の感性のみによって評定したような〇△×判定は、結果的に歴史的ピアニストの歴史的名盤の多くに死刑宣告を突き付けており、当時の私は大変な衝撃を受けた。
そしてまた、新進のピアニストがどんな風に弾いているかに目を見開かされたサイトであった。

思えば私は恵まれていた。

一方で、吉田秀和さんや宇野功芳さんのようなクラシック音楽の評論家がピアニストを聴いた場合の価値基準と、もう一方で、このkyushimaさんのような、ピアニストが何をやっているかが良くわかる、往々にしてピアノが良く弾ける方(そして音楽業界と癒着していない方)が聴いた場合の、しばしば全く異なる価値基準の間に挟まれて、それぞれの良さと問題点を咀嚼しながらピアノオタク道(?)を邁進する事ができたと思う。

最近の人たちは、どのようなかたちでピアノ演奏の聴き比べの領域に入っていくのだろう??

キーシンの1987年東京ライヴ(SONY)

私はそれほど熱心なキーシンの聴き手でないのだが、よく「神童期のキーシンには現在の彼にはない魅力があった」という話を耳にするが、この15歳くらいの時のライヴ録音を聴く限り、そんな事はないと思った。

私は神童期の演奏をこれしか聴いた事が無いのだが、後年のBMGへの一連の録音と陸続きの、紛れもなくこの奏者特有の音楽を感じる。即ち、ここで演奏されているプロコフィエフソナタ6番やラフマニノフの「音の絵」の音楽づくりはリヒテルやギレリスの時代を彷彿とさせる巨匠趣味、しかしタッチはソ連の戦車ピアニストに近い。これがリストの「森のささやき」のような作品になるとタッチの印象が激変、現代のロシアのピアニストとしか言いようのない豊饒な響きの弱音を聴かせる。

この、ソ連/ロシアのピアノ演奏の歴史が溶け合ってと言うよりは3世帯同居していて"誰が電話に出るか分からない"ピアニズムこそ、私見では、この奏者の際立った特徴であって、後にこの盤と比べて技巧的にずっと安定を加えてから行われた一連の録音の印象を、画一的なレッテル(例えば"現代を代表するロシア奏法のピアニスト"とか、"最後の戦車ピアニスト"とか)で回収するのを困難にしている主要因だと思う。

グティエレスのショパン:24の前奏曲集他(Bridge)

グティエレスの名前は以前から聞いた事があったのだが、録音が大変に少ないうえにソロで弾いたものは皆無に等しい状態で、このBridgeへの2015年の録音で初めて聴いた。

一聴した感じでは、非常に特殊なありかたをするピアニストとの印象を受けた。

まずメカニックの完成度が非常に高いのだが、では技巧派の、指回りの魅力によって音楽をつくる奏者かと言えばちょっと違う。その冴えわたる技巧は、おそらく浅めの打鍵による現代的な奏法に起因すると思われ、実際に美しい音の持ち主なのだが、では最近の若手奏者のように美しい弱音の響きを前面に出して音楽を造形するタイプでもなく、どちらかと言えばペダルを控えめに使用しているためタッチの粒立ちが際立って良いのだが、ではタッチの粒立ちが魅力のピアニストかと言われれば、それも一面にしか過ぎない…。

このような感じで、複数のピアニズムの類型を連想させたうえで、最終的にそれらのことごとくに抹消線が引かれるかたちで、1940年代生まれの奏者にとって時代のトレンドである”楽譜に書かれていることに忠実な演奏スタイル”が達成されている。

それはあたかも、作品をいかようにでも料理できる才能あるピアニストが、当時の原典至上主義様式の中に自己を押し込めようとした結果、遠目には見事に型にはまって見える感じであり、まるで歴史の教科書に出て来た"ぱっと見は仏像だけれど良く見るとマリア像"のようだ。

私には、ミケランジェリ演奏家としての在り方と根底において相通じるものが有るようにも感じられ、群を抜いてマニエリスティックなピアニストだと思った。

神童ピアニストのCDデビューに思う事

最近立て続けに「牛」の字のつく神童ピアニスト、即ち牛田智大さんと牛牛さんのCDを聴く機会があったのだが、演奏の話は置いておいて、いや、演奏が素晴らしいからこそ、せめて十代後半になるまでは周囲がそっと見守ってやる事ができないものかと思うところ大であった。

ひとつ目の理由は、やはり才能と言うのは諸刃の剣であり、大きければ大きいほど本人に害をなす可能性があるので、その才能を十分に受け止める器が育つまで、周囲の大人が守らねばならないと思うのだ。

理由ふたつめは、人生には本人の力量とは全く相関が無いトレンドと言う波があり、本人が音楽家として順調に右肩上がりに成長したとしても、世間からスポットライトが当たる時期と回数には限りがある。その貴重な1回が10才かそこらで来てしまう音楽家の、その後のキャリア形成に与える影響を、周囲の大人たちは熟考した方が良い。

少なくとも私の息子が神童であったら、こういう状況は絶対に避けさせると思う(しかし、彼は目下メトード・ローズ上巻に苦戦中で、その心配は無さそうだ…)。

クラウスのモーツァルト:ソナタ選集(コロムビア)

クラウスのモーツァルトソナタ全集の旧録音でM&A盤に出会う前のこと、新星堂盤で聴いて録音に大いに不満だった私は、同じ時期(1950年頃)にVoxに録れたソナタ選集があると知って飛びついた。それがこのコロムビアによる復刻版で、ソナタK.310,331,332,576及び幾つかの小品に加えてハイドンのHobⅩⅥ-37が含まれる。

しかし意外な事に、ここに聴くクラウスの演奏は、録音こそ問題を感じないモノラル録音だが、ピアニストは本当に同一人物かと一瞬疑ってしまうほどに表現が大人しい。クラウスはこの後僅か4~5年で前述の旧全集を録音するのだか、この選集と旧全集の間に横たわる距離感は、旧全集と新全集のそれより遥かに大きい。

昔、小石忠男さんが「世界の名ピアニスト」の中で、表現主義的な弾き方をするようになったクラウスが、戦前にゴールドベルクとデュオをやっていた頃からは想像もつかなかった、と言うようなことを書いていたが、その事を思い出させる録音であった。

クラウスのモーツァルト:ソナタ全集旧録音(Music&Arts)

私が初めてクラウスの旧全集を買って聴いたのは、新星堂の復刻盤であった。

著名な録音技術者シャルランによるこの録音は、クラウスの調子が大変良いのが裏目に出て、その昨今の合理的奏法から逸脱した弾き方に起因すると思われるアタックノイズ(sfのような箇所で伴う雑音)をマイクが壮大に拾ってしまっていて正直聴くに堪えず、CBSへの淡泊さを増した新録音の方が、雑音も少なくて余程良い演奏に感じていた。

ところが、どうも新星堂のは音質が悪く、クラウスの旧盤を聴くなら当M&Aの復刻が優れているという情報を得て、思い切って買い直してみた(私がリマスターを理由に買い直すことはほとんど無いのだが、この盤は特別であった)。

届いた盤を新星堂のものと聴き比べてみたのだが、M&Aのリマスターは噂にたがわぬ見事なもので、耳障りであったアタックノイズが気にならないレベルまで低減されている(その代わり高音部のツヤが少々犠牲になっている)。

このM&A盤の登場によって、クラウスの旧全集は新全集と甲乙つけがたく良いと思うようになった。

そして今度も痛感したのは、我々が録音を聴いて「クラウス」だと思っているのは、ピアニスト本人の他、ピアノ、調律師、ホール、録音技師、リマスター技師、そして再生環境の掛け算になっているという、紛れもない事実である。

私は、ピアノを弾く趣味が無かったら、間違いなくオーディオマニアかリマスター盤オタクになっていたと思った。

トリオ・カンパネッラによるアルベニス:イベリア(ギター三重奏版)(NAXOS)

去年の12月末から、本を読む感覚で、興味あるピアノ曲の譜読みを始めた。
少しでも若さがあるうちにと、いちばん譜読みが難しそうな作品から始めたのだが、最も苦戦したのはアルベニスのラバピエスとレーガーのバッハ変奏曲であった(幾つかの現代音楽はこれらより難易度が高そうだが、目下読む予定はない)。

アルベニスの「イベリア」の中でも最高に難解とされるラバピエスは、最初から最後まで臨時記号と密集音塊の嵐であり、楽譜通りに左右の手で音を取るべきかどうかを殆ど1小節ごとに止まって考え込むという、まさに苦行であった。

CDで聴いてみても、ラロ-チャやアムランの演奏でさえ、ひたすら音が多くてごちゃごちゃした印象である。「イベリア」には好きな曲が結構あるのだが、この曲に限っては、果たして名曲かどうか考え直そうか…というのが、正直な感想であった。

ところが、そんな私のラバピエス感を激変させる衝撃のCDを聴いた。
それがこのギター・トリオ版である。

演奏者を苦しめるごてごての音塊が3つのギターに分割されるとあら不思議、倒錯した疑似ポリフォニーのような各ラインは見事に整理されて風通しが良くなり、ピアニストが弾いた時の困難さからくる鬼気迫る感は一切取り払われた結果、作者の指定する「陽気で自由な」盛り場の雰囲気が、まるで蘇った古代遺跡のように見事に立ち現れるのだ。

私はこのギターでの演奏によって初めて、アルベニスがこの曲に込めた音楽を聴く事ができた。

ラバピエスに挑戦される方は、絶対に聴いてみた方が良い。そして私は、このギター版にあふれ出る音楽を取りこぼさずにピアノに"再編曲"する弾き方を模索するのが良いとさえ、思ってしまう。

ともあれ、私のピアノ人生に決定的な影響を与えた1枚であった。

反田恭平さんのリスト:ピアノ作品集(日本コロムビア)

人気急騰中の反田さんによるリストの CDを、ようやく図書館で借りる事ができた(2ヶ月以上かかった)。

聴いた印象は、ネットで試聴した時と大きく変わらない。

楽器がきしむほどに強烈な打鍵、ピアノが悲鳴をあげる3歩手前の爆音は、まるでラザール・ベルマンの再来だ。これこそ"ロシア奏法"ならぬ"ソ連奏法"で、かつて一世を風靡した弾き方である。

私の学生だった頃、それは、まだポリーニの超絶技巧神話が健在で、若手と言えばポゴレリッチ、ツィマーマンやプレトニョフ、そしてキーシンは神童、ブーニンは新進と言う時代であったが、大きな爆音は、速くまわる指と並んでアマチュアのピアノ弾きにとってステータスであり、プロコフィエフソナタは煙をあげる感じでバリバリ弾くものだと信じられていた…。
反田さんのピアノを聴いていて、そんな昔の思い出が走馬灯のように駆け巡った。

最近の奏者でこういう弾き方をする人は、ほとんど居なくなってしまった(わずかに、ARTE NOVAにプロコフィエフを録音したドミトリエフがこのタイプであろう)。
現代奏法の先生は顔をしかめるかも知れないが、こういう弾き方のピアニストが何人か残っている方が、私のようないちピアノファンにとっては、奏法(文化)の多様性の維持という観点で好ましい。
これは保つのに非凡な才能と努力を要するピアニズムだろうが、反田さんにはこの弾き方による魅力を維持していって欲しいと思った。