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メメント・モリ、あるいはピアノにかんするエトセトラ

私が人生で出会ったもの・考えたこと

神童ピアニストのCDデビューに思う事

最近立て続けに「牛」の字のつく神童ピアニスト、即ち牛田智大さんと牛牛さんのCDを聴く機会があったのだが、演奏の話は置いておいて、いや、演奏が素晴らしいからこそ、せめて十代後半になるまでは周囲がそっと見守ってやる事ができないものかと思うところ大であった。

ひとつ目の理由は、やはり才能と言うのは諸刃の剣であり、大きければ大きいほど本人に害をなす可能性があるので、その才能を十分に受け止める器が育つまで、周囲の大人が守らねばならないと思うのだ。

理由ふたつめは、人生には本人の力量とは全く相関が無いトレンドと言う波があり、本人が音楽家として順調に右肩上がりに成長したとしても、世間からスポットライトが当たる時期と回数には限りがある。その貴重な1回が10才かそこらで来てしまう音楽家の、その後のキャリア形成に与える影響を、周囲の大人たちは熟考した方が良い。

少なくとも私の息子が神童であったら、こういう状況は絶対に避けさせると思う(しかし、彼は目下メトード・ローズ上巻に苦戦中で、その心配は無さそうだ…)。

クラウスのモーツァルト:ソナタ選集(コロムビア)

クラウスのモーツァルトソナタ全集の旧録音でM&A盤に出会う前のこと、新星堂盤で聴いて録音に大いに不満だった私は、同じ時期(1950年頃)にVoxに録れたソナタ選集があると知って飛びついた。それがこのコロムビアによる復刻版で、ソナタK.310,331,332,576及び幾つかの小品に加えてハイドンのHobⅩⅥ-37が含まれる。

しかし意外な事に、ここに聴くクラウスの演奏は、録音こそ問題を感じないモノラル録音だが、ピアニストは本当に同一人物かと一瞬疑ってしまうほどに表現が大人しい。クラウスはこの後僅か4~5年で前述の旧全集を録音するのだか、この選集と旧全集の間に横たわる距離感は、旧全集と新全集のそれより遥かに大きい。

昔、小石忠男さんが「世界の名ピアニスト」の中で、表現主義的な弾き方をするようになったクラウスが、戦前にゴールドベルクとデュオをやっていた頃からは想像もつかなかった、と言うようなことを書いていたが、その事を思い出させる録音であった。

クラウスのモーツァルト:ソナタ全集旧録音(Music&Arts)

私が初めてクラウスの旧全集を買って聴いたのは、新星堂の復刻盤であった。

著名な録音技術者シャルランによるこの録音は、クラウスの調子が大変良いのが裏目に出て、その昨今の合理的奏法から逸脱した弾き方に起因すると思われるアタックノイズ(sfのような箇所で伴う雑音)をマイクが壮大に拾ってしまっていて正直聴くに堪えず、CBSへの淡泊さを増した新録音の方が、雑音も少なくて余程良い演奏に感じていた。

ところが、どうも新星堂のは音質が悪く、クラウスの旧盤を聴くなら当M&Aの復刻が優れているという情報を得て、思い切って買い直してみた(私がリマスターを理由に買い直すことはほとんど無いのだが、この盤は特別であった)。

届いた盤を新星堂のものと聴き比べてみたのだが、M&Aのリマスターは噂にたがわぬ見事なもので、耳障りであったアタックノイズが気にならないレベルまで低減されている(その代わり高音部のツヤが少々犠牲になっている)。

このM&A盤の登場によって、クラウスの旧全集は新全集と甲乙つけがたく良いと思うようになった。

そして今度も痛感したのは、我々が録音を聴いて「クラウス」だと思っているのは、ピアニスト本人の他、ピアノ、調律師、ホール、録音技師、リマスター技師、そして再生環境の掛け算になっているという、紛れもない事実である。

私は、ピアノを弾く趣味が無かったら、間違いなくオーディオマニアかリマスター盤オタクになっていたと思った。

トリオ・カンパネッラによるアルベニス:イベリア(ギター三重奏版)(NAXOS)

去年の12月末から、本を読む感覚で、興味あるピアノ曲の譜読みを始めた。
少しでも若さがあるうちにと、いちばん譜読みが難しそうな作品から始めたのだが、最も苦戦したのはアルベニスのラバピエスとレーガーのバッハ変奏曲であった(幾つかの現代音楽はこれらより難易度が高そうだが、目下読む予定はない)。

アルベニスの「イベリア」の中でも最高に難解とされるラバピエスは、最初から最後まで臨時記号と密集音塊の嵐であり、楽譜通りに左右の手で音を取るべきかどうかを殆ど1小節ごとに止まって考え込むという、まさに苦行であった。

CDで聴いてみても、ラロ-チャやアムランの演奏でさえ、ひたすら音が多くてごちゃごちゃした印象である。「イベリア」には好きな曲が結構あるのだが、この曲に限っては、果たして名曲かどうか考え直そうか…というのが、正直な感想であった。

ところが、そんな私のラバピエス感を激変させる衝撃のCDを聴いた。
それがこのギター・トリオ版である。

演奏者を苦しめるごてごての音塊が3つのギターに分割されるとあら不思議、倒錯した疑似ポリフォニーのような各ラインは見事に整理されて風通しが良くなり、ピアニストが弾いた時の困難さからくる鬼気迫る感は一切取り払われた結果、作者の指定する「陽気で自由な」盛り場の雰囲気が、まるで蘇った古代遺跡のように見事に立ち現れるのだ。

私はこのギターでの演奏によって初めて、アルベニスがこの曲に込めた音楽を聴く事ができた。

ラバピエスに挑戦される方は、絶対に聴いてみた方が良い。そして私は、このギター版にあふれ出る音楽を取りこぼさずにピアノに"再編曲"する弾き方を模索するのが良いとさえ、思ってしまう。

ともあれ、私のピアノ人生に決定的な影響を与えた1枚であった。

反田恭平さんのリスト:ピアノ作品集(日本コロムビア)

人気急騰中の反田さんによるリストの CDを、ようやく図書館で借りる事ができた(2ヶ月以上かかった)。

聴いた印象は、ネットで試聴した時と大きく変わらない。

楽器がきしむほどに強烈な打鍵、ピアノが悲鳴をあげる3歩手前の爆音は、まるでラザール・ベルマンの再来だ。これこそ"ロシア奏法"ならぬ"ソ連奏法"で、かつて一世を風靡した弾き方である。

私の学生だった頃、それは、まだポリーニの超絶技巧神話が健在で、若手と言えばポゴレリッチ、ツィマーマンやプレトニョフ、そしてキーシンは神童、ブーニンは新進と言う時代であったが、大きな爆音は、速くまわる指と並んでアマチュアのピアノ弾きにとってステータスであり、プロコフィエフソナタは煙をあげる感じでバリバリ弾くものだと信じられていた…。
反田さんのピアノを聴いていて、そんな昔の思い出が走馬灯のように駆け巡った。

最近の奏者でこういう弾き方をする人は、ほとんど居なくなってしまった(わずかに、ARTE NOVAにプロコフィエフを録音したドミトリエフがこのタイプであろう)。
現代奏法の先生は顔をしかめるかも知れないが、こういう弾き方のピアニストが何人か残っている方が、私のようないちピアノファンにとっては、奏法(文化)の多様性の維持という観点で好ましい。
これは保つのに非凡な才能と努力を要するピアニズムだろうが、反田さんにはこの弾き方による魅力を維持していって欲しいと思った。

浅田真央さんの思い出

引退会見を、感慨深く見た。

妻がフィギュアスケートが好きで、結婚してから息子が生まれるまでの間、私もつられてテレビでよく見ていた。

浅田真央さんは、原曲がピアノの曲で演技するのを、多く見た気がする。

一番思い出深いのは、ラフマニノフ前奏曲op.3-2で、冒頭の3つの和音のあと弱音まで落として始まる第1主題が弦のきざみで弾くように編曲されていて、そのお化けが出るようなドロドロ~という感じが、演技スタート時の緊迫感と絶妙にマッチしていた。

その他、まさかここで!という時にカットが入るショパンのバラード1番もあったっけ…。

当時の私は、フィギュアスケートは、出場者に要求される技術力と芸術性のバランスが、最近のピアノコンクールにそっくりだと思っていた。そしてどちらも、10代後半から20代前半で頂点を築いてしまう事が…。私の好きな、70歳と80歳の間に芸術的頂点がくるピアニストとは、かなり別の世界になっていると、ずいぶん考えたものだ。

三谷幸喜の「新選組!」(NHK大河ドラマ)

3月末に、春休み中の息子と妻が妻の実家に帰省することになり、私にささやかな春休みが訪れた(土日限定だが)。

そこで、来し方を振り返ってみようと思い、以前の職場に勤めていた時に住んでいた町に旅行しようと思ったのだが、予算と天気の関係で断念した。

そこで替わりにこの全話収録DVDを、1週間に3~4話のペースで、時間をかけて見る事にした。

この大河ドラマをリアルタイムで見ていた年、私は新入社員として前の職場に入社して勤務地に赴任していた。赴任先にヤマハのC5を持って行く事ができず、大変つらい時期であった。

その時の気持ちを思い出して現在の恵まれている自分を省察できるかと思ったのだが、残念ながら、観ていて一切何も思い出さなかった。見事なまでに…。あの頃の自分と今の自分は、果たして本当に陸続きなのかと、疑ってしまう。

ところでいま第13話「芹沢鴨、爆発」を見終えたのだが、あれっと思ってしまった。

私がリアルタイムで見た時には確かあった場面が、見当たらないのである。

それは堺雅人の演じる山南敬助が、浪士組の隊士の部屋割りを考える時に割り算ができずに「まあ、なんとかなるでしょう…」というシーンで、当時は割り算は高等算術で学識のある山南さんですらできなかった(へぇ~)という個所だ。

私の記憶では確かにあったと思うのだが、この完全版と銘打たれたDVDではそのシーンが見当たらない。どなたかご存じないだろうか??

音楽史‐古楽との出会い

新年度から土曜の朝に息子が習い事に出かけることになった。

そこで、新しくできた自由時間を、古い鍵盤音楽をピアノで演奏できる可能性の探索に使う事にした。

今日はこの辺の個人的な考えを書いておきたい。

子供の頃、クラシック音楽の世界にピアノから入った私は、いつしか自然と、ドイツ・ロマン派を中心とした音楽の捉え方・感じ方を刷り込まれてしまっていた。

これは、バッハを仮想原点とするドイツ・ロマン派がクラシック音楽の中心にあり、和声的な複雑さを増しながら発展していき、シェーンベルクに至って崩壊するという進化論的な音楽史観である。

ところで人は、規定のパラダイムで捉えきれない境界線に触れるとざらっという感覚を感じるようにできているものらしい。

このクラシック=ドイツ・ロマン派と言う見方をしていた私にとって一番それを感じたのは、バッハの幾つかの後期鍵盤作品であった(2番目はモーツァルトソナタである)。

そして大学生の頃、音楽史の勉強をする機会があって、目を開かされた。

その教えが私に残したものをまとめると、ヨーロッパ世界は約300年周期で宗主国が崩壊し、これにあわせるように西洋音楽も地層を形成していて、層と層の狭間で過度に技巧的かつ調性を逸脱した音楽が残されていると捉える、新しい見方である。このパラダイムとて万能ではないが、私にはこの方が遥かにしっくりくると感じるようになった。

これを採用するならば、我々がいるひとつ前の300年、つまり1600-1900年の中央にそびえ立ち、ジェズアルドの音楽が持っていてフレスコバルディに影のように潜んでいる逸脱を汲み取って新ヴィーン楽派の出現を予言しているのが、バッハである。

そしてこの1600-1900年は作曲家が自身感じたことを主題にして音楽を書いた時代であった。

従ってこの時代の鍵盤音楽は、バッハ以前の作品でも、個人的な感情の表出に最も優れた楽器であるピアノによって演奏してしまって一向に差し支えないと、私は思うに至っている。

トリフォノフのリスト:練習曲集(DG)

このピアニストを初めて聴いたのは、少し前に発売されたカーネギーホールのライヴ録音のCDであったのだが、この最新作のリストのほうがずっと出来が良いと感じた。

最大の原因は、やはりスタインウェイを弾いてスタジオで録音した事だろう。先のライヴ録音(これも恐らくスタインウェイだが…)に比べると弱音の響きの美しさが際立ってよく録られている。

この奏者は、私見ではベレゾフスキーと同様のタイプで、高度に安定した技巧を誇るにもかかわらず、ヴィルトゥオージティが発揮される個所で、良くも悪くもそれ自体の魅力が単体で乖離してしまうきらいがある。あえて例えるなら、面白く聴かせようとして、ちょっとすべっている感じだ。

だからこのリストの演奏を真に感動的なものにしているのは、超絶技巧練習曲でいえば風景、幻影、そして回想で聴かせる詩情であり、これをマイクが見事に捉えているため、外向きの絢爛な技巧と一対を成して、この奏者の演奏芸術を奥行き深いものにしている。

ヴィタリー・マルグリスのショパン:葬送ソナタ他(AUROPHON)

この奏者の事を、ユ-ラ・マルグリスのお父さんだというくらいしか知らなかったのだが、先日読んだ領家さんのブログで演奏の素晴らしさに触れられていて、聴いてみようという気になった。

そして、この廉価版CDのショパンを聴いて、完全にひき込まれてしまった。

これはタッチやテクニックがどうこうと言う次元で語られるピアニストではない。間違いなく桁外れの音楽家、ロシア呪術的ピアニズムの継承者だ。同系列の奏者では、少し後の世代のイーゴリ・ジューコフに匹敵するか、上回る。

このピアニストの名前のないロシア・ピアニズムの系譜は、もはや考えられない。

あまり残響の無いスタジオでの録音だが、このクラスの音楽家になると殆ど気にならなず、むしろ良くデジタル録音で演奏を残してくれたと思う。2011年に亡くなられたようだが、この奏者の正規録音が目下ほとんど見当たらないのは、クラシック・レコード業界の歴史的損失だ。

ふたたび「風の谷のナウシカ」について

漫画版「風の谷のナウシカ」は魅力的な作品で、その放出する磁力に、私は定期的に引き付けられている。
最近また考え直す機会があって、今度は何か水脈のようなものにぶつかったので、生温かいうちに書いておきたい。


発端は、初めて「教育勅語」を読んでみた事である。

例の幼稚園の話がニュースになり出した時、「教育勅語」という単語には、そういえば受験勉強の時覚えたなぁ…くらいの感慨しかなかった。しかし、小田嶋隆さんが「ピース・オブ・警句」で取り上げられていたのを機会に、どんな内容か目を通してみて、凍った。

引っ掛かったのは、やはりこの個所である。
「祖国の存亡の危機には、祖国の存続のために身を捧げましょう」

この文体がなぜ最高に危険かというと、一読して危険を感じないからである。

われわれ人間は、自分の所属する偉大なるもののために自己を犠牲にすることができ、しばしばその時に最大の力が発揮され、それは最も美しい行為のひとつに分類されている。

例えばヨハネ福音書には、こうある「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」。
あるいは、少年漫画の主人公は、しばしば彼の所属するチームのために自己を犠牲にし、それは最も美しい場面だ。

かくして、この「自己犠牲」が放つ神聖なまでの美しさのために「偉大なものの為に自己を犠牲にすること」が「偉大なものの為に他者に自己犠牲を強いること」に言い換えられた時の薬が毒に激変する様に気がつかないのである。

 

ここで私は、この神聖なまでの美しさが引き起こす熱狂を徹底的に避けようとしていた人と、その著書を思い出した。
フルトヴェングラー」の吉田秀和さんである。
この本を読み返して、しかし私が気付いたのは、ひとり吉田秀和さんのみならず、戦後スキームそのものが「神聖な美」や「宗教的なまでの美しさ」を文化の中核から排除しようとしていたという事である。それは恐らく、これらが絶対的な善に近い程の美しさを持つがゆえに批判的な立場というものが伴えず、その危険性を歴史を経て痛感しているからである。

(ところでピアノ演奏におけるこのスキームの完成形が 私見ではポリーニアシュケナージで、彼らの演奏が「神聖なまでの美しさ」を持たないと感じるとき、こういう歴史的背景によって時代が選出した代表者である事を考えねばならない)。

 

この「神聖なまでの美しさ」のはらむ危険性を最も見事な形で示したのが、実は「風の谷のナウシカ」であった。
現在の私は、こう考えるようになった。

よく言及されているように、漫画版ナウシカはアニメ映画版ナウシカのアンチテーゼであり、作品として対を成している。
そして、アニメ映画版ナウシカの聖なる少女の神話が、批判的な視点が一切考えられないほど絶対的に近く美しいがゆえに、同一人物の延長である漫画版ナウシカが最後の墓所破壊のシーンでとる行動の危険さに、見事なまでに気づかないという構造になっている。
実際に私自身、ナウシカの取る行動に9割まで共感し、残り1割でざらっとした違和感を感じる。宮崎さんが、これでもかとばかりに「新人類の卵」を破壊するシーンを描いているにも拘らず、われわれ読み手は、卵から生まれる新しい人類を主人公たち旧人類と同じく人間と見なせる可能性に対する想像力を、ほとんど失ってしまっている。

この、想像力が欠損する問題は、たぶん汎人類的な課題である。

現代奏法のメモ書き(2)

私が大学生だった頃、ようやくネット上の情報が充実し始め、私がこれまで習っていたのは「ハイフィンガー奏法」で、もっと合理的に腕の重さを使う「重量奏法」あるいは「重力奏法」という弾き方があることを知った。

この弾き方を簡単に言うと、肩から腕までを完全に脱力して指先に乗る重さを支えるのに(実はこう考える時点で鍵盤の底からの反作用の力を相手にしている)、手の伸筋と屈筋を両方使う(曲げた指)よりも、なるべく屈筋のみを使う(伸ばした指)ようにして弾いたほうが楽だよね!という弾き方である。私はこれをかなり意識して練習していた。

しかし、この奏法を発展させないと、出せない音質の音、ちゃんと鳴らせない楽器があるのを身を持って体験した。

これを可能にする現代奏法(←勝手に命名)とは、どうも打鍵動作の中立点、均衡点が「鍵盤を底まで押した状態」ではなくて、「鍵盤が元の位置に戻った状態と、その上に置かれた指」にあるような奏法なのだ。

かくして、重量奏法の問題の立て方は「打鍵時にかかる重さを如何にして指で支えるか?」であったのが、現代奏法の問題の立て方は「打鍵時以外に不要な重さを、如何にしてせき止めておくか」とコペルニクス的に転回する。

ひとつの方法は、私は知らず知らずでやっていたが低い椅子に座ることで、肘よりも手首の位置が高くなる。そうすると上腕までの重さは肩につり下がり、前腕と手の重さは肘を支点にして上腕の筋肉で支える(実はジャン・ファシナ著の「若いピアニストへの手紙」にこの事が書かれていて、私はようやく何が書いてあるか判るようになった)。この構えによって打鍵に使えるのは、手と前腕の重さである。

ところが、場合によっては打鍵時に上腕の重さも参加させたくなる場合が出てくる。

そこで、高い椅子に座ってこの奏法をとるやり方が、どうも有るようなのだ。これは現代ロシア奏法を教えられているという偉い先生の受け売りである。

・高い椅子に座って、前傾姿勢をとる。

・腕の重さを、手首を支点にして前腕の筋肉で支える。

私が高い椅子で弾く時は、従来の、腕の重さを指で支えるやり方をしていた(高い椅子と低い椅子を3週間おきに替えて練習している)。今度、高い椅子で試してみようと思う…。

現代奏法のメモ書き

先日、現代奏法のレッスンを受けてきた。

比較的高い椅子に座っていくつかの音を弾いたのだが、私のは手の使い方がおかしいという話になった。

先生がお手本で鍵盤をひょいっと弾くと、音がポーンと遠くまで飛んでいって、「こんな感じで打鍵してください」と仰られるのだが、同じようにできす、いったいどこが違うのだろう??という感じであった。

そして昨日の練習で、高い椅子での基礎練サイクルが一巡して低い椅子に戻した途端、まるでジグソーパズルのピースがカタカタと音をたてて揃っていくかのように、何が起きていたかが頭の中で組み上がってきた。

(1) 高い椅子の場合

肩から先の腕の重さが指先にのる。

脱力した時の手と鍵盤の均衡点のようなものが、鍵盤を底まで押してそこからの反作用の力を指で支えている状態となる。この状態を標準系として、ここ目がけて弾いている感じになる。

この状態で弾くとき、離鍵は打鍵と別動作である。

レガートで弾くとは、指にかかっている重さの移動になる。

(2)  低い椅子の場合

腕の重さは、半分は肩にぶら下がる。

脱力した時の手と鍵盤の均衡点は、鍵盤の戻る力によって元の位置に戻っている鍵盤に指が乗っかっているような、あるいは手がぶら下がっているような状態で、これが標準となる。この状態で打鍵すると、鍵盤に力を加えるのは一瞬であり、手を鍵盤に放り投げるような感じになって、遠くまで飛ぶポーンという音が出る。

この状態で弾くとき、打鍵の終了動作=一瞬かけた力を抜くのが離鍵になる。

ノンレガートで音が切れた状態が普通で、だからこの弾き方でレガートで音をつなげるのは、一番最後の練習課題になる。

ヴィルサラーゼのシューベルト:ソナタD.664ほか(Live Classics)

私が指摘するまでもなく、「美しさ」には、変換(写像)によって美しさを保つものと、失われてしまうものがある。ある種の文学作品は翻訳に耐えられるだろうが、翻訳したとたんに壊れてしまう作品がある。また、ある種の絵画は縮小コピーされて美術の教科書に載っても求心力を保つが、その良さを消失してしまう絵もある。音楽作品でいうと、バッハやベートーヴェンは楽器や楽譜の読み方が変わってしまってもその偉大さは残るが、オリジナル楽器で演奏されて初めて良さが分かる作品もある。

なぜこんな事を考えてしまったかと言うと、エリソ・ヴィルサラーゼの近年の録音が全てライヴ録音しかなく、取られた音の状況が著しく異なるのである。そして私の聴いた限りでは、ヴィルサラーゼの弾くシューマンショパンは録音状態が多少悪くても何がしかの感銘が残るのだが、シューベルトでは消失してしまうのを体験した。

この盤に収録のD.612、D.924、D.664は1997年12月22日の録音、D.915とD.946は1998年1月4日の録音である。前者の内のD.664の2楽章までは、ひょっとするとリハーサルを録音したものではないかと思うのだが、ヴィルサラーゼの音色の美しさをマイクが完全に捉えていて、その祈りに満ちた演奏に感動する(このライヴは同年に亡くなったリヒテルに捧げられている)。ところが、3楽章(観客のノイズが有り、明らかにライヴ)と1998年の演奏では録音状態が一変し、大変残念なことに、魅力の大半が消失してしまうのだ。

ヴィルサラーゼの録音は、大曲を弾いた盤しか持っていないのだが、私の聴いた中では、このシューベルトの前半の録音状態がベストであった。こういう事態を目の当たりにすると、このピアニストの録音をすべてかき集めて、徹底的に仕分けしたい誘惑にかられる(いつもの中毒症状だ…)。

音楽の手帖~ピアノとピアニスト(青土社)

"もうひとつのピアノ"の領家さんがblogで取り上げられていたこの本を読んでみた。1980年の初版なので大昔に書かれたものなのだが、一読して感じるのは、この時代は音楽評論が生きていたという事である。本書では音楽評論家と呼ばれる方々がピアニストをまな板に載せて、しばしば奏者本人には思いもつかないような切り口で持論を展開していて、その内容がどの程度に妥当であるかとは別に、豊かさのようなものが確かに存在している。

目下、いちばん面白かったのは遠山一行さんの評で、ブレンデルを(独墺系の伝統的な演奏スタイルを古典とするなら)擬古典主義でピアノ界最高のマニエリストと言い切っているところである。そして遠山さんは"マニエリスム"を次のような意味で使っている「伝統的な演奏スタイルが奏者の自然な表現行為として発露されていた時代の後になって、彼ら後発の奏者は音楽学校で客観的な知識を学び、レコードを聴きくらべ、そして彼らと同じくらい過剰に情報を持つ聴衆の前で自分の演奏を主張しなければならない。演奏は知的な意識による分析と解釈の積み重ねになり、演奏本来の自発性と創造性は失われるが、それでも才能のある音楽家は自分の演奏に固有の意味を与えることに成功するだろう」(やや自由に意訳)。

ブレンデルの演奏を聴いていて、グルダの言うところの「博物館の案内人」的な状況を僅かでも感じるとすれば、この遠山さんの言葉は、その原因を見事に言い当てている。