メメント・モリ、あるいはピアノにかんするエトセトラ

私が人生で出会ったもの・考えたこと

私がかかっていた束縛とそこからの解放を画像で説明する(2)

前記事からの続き

(2) op.10-11のアルペジオ

op.10-1でもよかったのだが、もっと弾きにくい箇所の例を…。

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中央の右手、シ♭、ソ、シ♭、ソの特大アルペジオをどう弾くか!?

【これまでの私】

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先の記事でのシャンドール教本にあるように、打鍵している鍵盤と打鍵している指と前腕の3つが一直線に軸を形成するように、手首と腕を柔軟に追従させていく。

【考えを改めた私】

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手首が鍵盤の上の空間をカメラ側に接近していく。最後のソなんて、もうチョップするような角度で打鍵する(つまりchopinでchoppingするわけだ!)。

私がかかっていた束縛とそこからの解放を画像で説明する(1)

はてなblogって無料枠で使っていても画像投稿できるんだ!知らなかった…(おいおい)。

私はピアノで食べている人間でなく、この話は現在習っている先生の直伝ではないので、私の考えた事を包み隠さず画像化したい。

私と同じ袋小路に陥ってしまっているピアノ弾きの方々(そんな人が居たらだが...)のヒントになりますように…。

 

(1) ショパンの指配置(ミ、ファ♯、ソ♯、ラ♯、シ)

これまで私は、こうだと思っていた。

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でも、こうじゃない!?

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シャンドール・ピアノ教本に言及する

私はシャンドールの偉業と、これから引用する図を教本から抜粋してアップロードされた勉強熱心なblog主様を否定するつもりは一切ない。

むしろこの教本の内容を補完する意味で、この本に書かれたやり方が最適ではない作品がある事と、それを私が身を持って体験したことを書き残したい。

私がほとんど無意識のうちにかかっていた束縛が、コンパクトにまとめられている個所は、これだ。

"前腕の筋肉と打鍵する指が常に一直線になるようにする。"

 

http://think-think.up.n.seesaa.net/think-think/image/E5898DE88595-E68C87.jpg?d=a0

私が書き加えるなら、(b)(c)ともに打鍵に使用する指に横方向に伸びた矢印が書かれているが、これと鍵盤の長さ方向が完全に一致するのを理想形として手首や肘を柔軟に動かしていくという打鍵法である。

これはMP関節を主体とした打鍵の最上の方法論だ。

だが私の体験した限りでは、少なくともショパンの幾つかの音型では手がはまらなくなるので、この考えを切り替えないといけない。

これはもう別の言語、別の文化だと思うしかない。

それではどういう風に手を使うかというと、手の平の面を鍵盤に対して傾けて配置する事は前に述べたが、前腕の筋肉の延長に来るのは親指または人差し指で、どんな音型が来ようがこの基本形を極力崩さずに維持したままで弾いていく。それは弾いていくというよりも、鍵盤に指をはめていくと表現したほうが最適かも知れない。

惑星とショパン

「惑星」の名前の由来は、天動説が信じられていた時代に、ほとんどの星は天空を同じ向きに動くのに、いくつかの星だけは行ったり来たりの不思議な動きをしているので「惑っている星」すなわち惑星と名付けられたという。

ここ数日、私は自分自身の無意識の領域にまで入り込んでいた"手の平は鍵盤面と水平にして弾く"という束縛を捨てて弾いてみたところ、ショパンの幾つかの音型が驚くほど手にはまるようになった。

私はこれまで、作曲者の想定していない手の使い方で無理やりショパンを弾いていたのだ。

12月4日の日記で"ショパンは塊で…"と書いたとき、なるほど良い事に気付いたとは思うが、"ショパンは指を広げて熊手のようにして弾く"とか"手首を回して弾く"とか"重さの支点を移していく"とかの考え方は、依然として「鍵盤と水平の手」=天動説のままでショパン=惑星の動きを何とか解決しようとして理論をこねくり回したようなものだ。

一番最初の出発点として、「水平の手」を放棄して、小指側が低くなるように傾斜させて構える(=地動説)。そうすると、そこから先をいろいろと考えなくても、全てがうまく流れていくのだ。

12月4日の日記の下半分と結論(オチ)を訂正させていただく。

ショパンはナナメに構えて弾く

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バッハ:フランス組曲4番より前奏曲 BWV.815a

フランス音楽におけるプレリュード(3/4)

 リヒテルは最も好きなピアニストのひとりで、リヒテルが弾いた録音を聴いて好きになった作品が結構ある。
この曲もそんな中のひとつ。
フランス組曲を集めたCDの中で、第4番の前奏曲が大好きになってしまった。
ところが楽譜を当たってみると、4番に前奏曲がない(そもそもバッハのフランス組曲には前奏曲がなく、アルマンドから始まる)。
どうなってるの??

実はこのCDの曲目を見るとBWV.815aの"a"となっているのがポイントで、異稿にある前奏曲だったのだ!

youtu.be

ショパンの弾き方が分からなくなったので、会社の事を思い出してみた!

…いえ、極めて真面目な話です。

ショパンを弾くときの理想的な手のフォームをもう一度確認したくてアルゲリッチの動画を見てみたのだが、カメラのアングルのせいか、むしろ前腕の筋肉のムキムキっぷりに気を取られてしまって、良く分からなかった…。

だがその時、ある考えがひらめいた。

 

私たちの現代社会には、2種類の"キーボード"がある。
ひとつ目は、我々の体が先方に合わせに行かないといけないキーボード=ピアノ。もうひとつは、先方が我々の体に合わせて、その形が改良されてきている、PCのキーボードだ。

これは会社の同僚(ソフト屋さん)が使っていたので思い出したのだが、エルゴノミクスキーボードというのがあって、人間工学の粋を尽くして身体に一番負担のかからない形状が追及されている。


ここで思いっきり理論飛躍するが、ショパンの追及した合理的な手の形とは、実はこのエルゴノミクスキーボードに手を配置した時の形に限りなく近いのではないだろうか!?

↓画像↓

https://image.biccamera.com/img/00000003619238_A01.jpg?sr.dw=600&sr.jqh=60&sr.dh=600&sr.mat=1

このキーボードに手を添えたときの形は、手の平がテーブル面に対して水平ではなくて、親指と人差し指の付け根のあたりが一番高く、小指の付け根のあたりが一番低くなってくる。

実は、ショパンが弟子に教えたという1~5指の配置(ミ、ファ♯、ソ♯、ラ♯、シ)に指を置いた時、手の平は鍵盤の面に対して水平ではなくて、上記のように傾斜させたのではないか!?
そして、この傾斜した手の平での打鍵を考えると、MP関節主体では打鍵の方向が鍵盤に対して垂直ではなくなるため合理的ではなく、やはり手首主体で弾いていくのが前提のポジションなのではないか。

さらに言うと、いわゆる三大難関エチュードの基本音型は全て、この傾斜させた手でつかんだ時に一番弾き易いように書かれていないだろうか?
・op,10-1:ド、ソ、ド、ミを1,2,4,5で弾く場合、親指と人差し指の付け根のあたりが一番高く、小指の付け根のあたりが一番低くなっている傾斜した手の平の構えで弾きに行くのが一番自然なのでは!?
・op.10-2:1,2指で最初の下の和音を鳴らして3,4,5指が半音階を駆け上がる時、〃。
・op.25-6:1,4-2,5で弾く最初の重音は、〃。

 さらに気づいた事だが、前回も引用した青柳いづみこさんの「ピアニストは指先で考える」でこんな記述が出てくる。
・(ショパンがピアノを弾いているところの絵を見ると)肘を胴体にぴったりつけて、きゅうくつそうにかまえている(p.11)。
ホロヴィッツはきゅうくつそうに肘を折り曲げて弾く(p.25)。
だが実は、肘を体側にくっつけて弾いてきゅうくつになるのは手の平と鍵盤の面が水平に配置されて弾く場合で(この時は肘が体側からやや離れた状態が自然)、手の平が前述のように傾斜している場合には、むしろこの肘が自然なのでは??

 

⇒アマチュアは頭でっかちで考える…。

♩ドレミファソファミレドと弾くときに手首を回すのか回さないのか(←考察内容が最新ではないです)

2017年2月3日の日記でシャンドール・ピアノ教本を読んだ感想をもとに考察したのだが、今日、完全に腑に落ちる考えを持ったので、忘れないうちに書いておきたい。

事の発端は、ライフワークと化しているショパンのop.10-1をひと月ほどねかせていたのだが、先週久しぶりに弾いてみたところ、なんだか指のはまりが悪くなってしまっていて上手く弾けなかった。

当初私は、基礎練の時間を削って譜読みばかりしているので指がなまったと思い、基礎練の時間を先週末から倍に増やしてみた(1日5分→1日10分)。
この効果があったかどうかは不明だが、それとは関係なしに、今日また10-1を弾いていて決定的なことに気付いた。

それは、私の右手の弾き方が合わなくなっていたのである。

何がまずかったのかを、順を追って書いていこう。

私は、ここ数年間、いわゆる"現代奏法"と呼ばれる弾き方の一種を習っていて、自分でも意識して弾いている。
この種の奏法を教えている先生方の書いているblogなどを拝読すると、流派の違いはあっても、いくつかの共通点がある。

まず、

・指を鍵盤から可能な限り離さずに弾く
・鍵盤の底を狙うような深くまで打鍵しない
・手首を高めに保つ

次に、
・腕が脱力した時の重さを必要最低限の力で支えて、鍵盤の上面に力の均衡点をもってくる。

…ここまでは良い。

・一瞬だけ均衡を崩して、MP関節を主体にして瞬時に打鍵する(手首や肘は必要に応じて最適なポジションを保つために追従する)。打鍵した指は瞬く間に脱力する。この間、打鍵していない指は完全に脱力している。

…ここがおかしい。

このやり方が、10-1のアルペジオを弾くのに最適じゃないのだ。

えっ、この弾き方は間違っているの?と思われるかもしれない。

これは点(単音)を弾くときに最適な打鍵で、ショパンの急速音型の幾つかは点じゃなくて塊だったのだ!

(筆者注:ここより下は内容が古い。12/6以降の日記を要参照)

言い換えるなら、ショパンのある種の細かい音符は、単音の連続ではなくて、広すぎて同時につかめない和音と捉える。
これを難なく弾くには、打鍵に使われていない隣の指は完全脱力ではなくて"支え"を残していないと弾きにくい。

この手の使い方を別の言葉で説明すると、手を完全脱力した状態「お化けの手」から少し開いて「熊手」をつくる。この「熊手」の指1本1本に、手首を使って重さの支点を移動させて打鍵する。その間の手の筋肉は、完全脱力でもなく過度に力んでいるわけでもなく、「熊手」の形を"支えて"いる。打鍵の主体はMP関節ではなくて手首である。

どうだろう??

この弾き方を前提に考えると、例えばショパンが言っていたという「音階をグリッサンドのように弾くとよい」(青柳いづみこさんの「ピアニストは指先で考える」9ページ)のやり方が見えてこないだろうか。

では、手を"熊手"の状態にして、手首を主体にして♩ドレミファソファミレドと弾いてみる。
すると、手首がくるりと一周しないだろうか!?

ああ、手首を回す弾き方というのは、多分この手の使い方を言っていたのだ…。


【今日のポイント】

ショパン:ピアノの魂(たましい)、じゃなくて塊(かたまり)

L.クープラン:前奏曲ホ短調

フランス音楽におけるプレリュード(2/4)

ピアニスト活動と並行してピアノ教師をされている方々のblogを、よく読む。
海外留学までして修行を積まれたような方でも、この日本ではコンサート一筋でやっていくのは厳しいらしく、レッスンをしたり、伴奏の仕事を請け負ったりしながら自身の演奏活動をされている方が多いようだ。
だからリサイタルの曲目の中心が、集客力の高いショパンなどの作曲家になるのは(自分がそういう立場だったらと想像すれば)致し方ないと思われ、キャリアの命運をかけてコンサートを準備している方々に向かって、「オール・ショパンはもう耳タコなので、オール・クープランにして下さい」などとは(内心思っていたとしても)決して口にできない。

これは完全に独断かつ僭越な考えかも知れないが、現代において忘れ去られているけれども演奏される価値があると思う作品を忘却の淵から拾い出すのは、私のようにいい歳くってまで何故か縁があって弾いているアマチュアの成すべき役割なのではないかと、最近思ったりする。

さて、ルイ・クープラン前奏曲
この作曲家の一連の前奏曲には、楽譜には音程とフレージングしか指示されておらず、最終的にどう弾くかは完全に奏者にまかせられている。
私にとっても(前回のF.クープランと違い)その音楽に触れた経験がほとんど無い作曲家で、いわゆるルイ・クープランの音楽の核を成すものを未体験なのだが、こんな感じかな?で弾いてみた。
(後々誤りに気づいたら、修正すればよいと思っている。こういう気軽さもアマチュアの特権だと思う。プロが弾くとなると、様式感とかの時代考証に対する立場を明確にしないで録音を作ってしまうと、後で命取りになる)。

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視奏と"位置音感"

小学校の時、クラスで一番ピアノが上手だったNちゃんは、先生に頼まれるままに合奏の伴奏を次から次へとこなしていった。
一方の私は、同じく幼稚園の時からレッスンを受けていたのに、こんな事はとても出来ぬ芸当だった。

いったい何がちがっていたのか。

Nちゃんは視奏(楽譜を見ながら弾く)ができたが、当時の私はこれが一切できず、曲をすべて覚えて指を見ながらしか弾けなかったのである。
(歳をとった今、視奏はできるようになったが、逆に暗譜ができなくなってしまった)。

この、指を見ずに楽譜を見ながら弾く場合には、ある音符を見た瞬間にその音の場所に指を持っていく能力、いわゆる"位置音感"のようなものが必要になってくる。

この"位置音感"で音を拾っていく場合、一番楽なのは同じ手のポジションで別の音を弾いていく場合だ。例えばドレミファソの指の配置でアルベルティ・バス:ドソミドと弾く場合。

これに対して、手の拡張などの変位を伴って次の音を掴む場合、例えばドソミドと弾いていた音型がドラファラにかわる場合などは、手のポジション変化が大きいほど難しくなっていく。

いちばん難易度が高いのはオクターヴを超える跳躍を高速に弾く場合で、これは指を見ながら弾かないと正確に弾くのは厳しいように思う。

一方、曲をすべて暗譜して指を見ながら弾いている人は、目で確認した位置に指を持っていく能力が反復強化されるため、この跳躍だけは、視奏の人よりも得意なのではないだろうか。

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F.クープラン:「クラヴサン奏法」より前奏曲1番

フランス音楽におけるプレリュード(1/4)

大学生の頃、カタログを片手にいろいろな作曲家のピアノ作品を探索していた時に、クープランの作品をピアノで弾けないかどうか興味を持った。

このバッハより一回りほど年上のフランスの大作曲家は、(マルセル・メイエルによる素晴らしい全集録音の有ったラモーと比較して)ピアノによる纏まった録音が無かった。ヒューイットが3枚の選集を出すのは、もう少し後の事である。
当時IMSLPやyoutubeは無かった時代で、楽譜は井口基成さんの世界音楽全集の第1巻:バロック名曲集の約半分がクープランの作品になっていて、これを入手した。
音源はチェンバリストのボーモンがERATOに入れたクラヴサン音楽全集を買ってきて聴いた。

そして当時の私は、クラヴサンのための組曲はピアノ向きではないと感じた。

むしろ、ピアノでの演奏に向いているのは「クラヴサン奏法」に含まれた8つの前奏曲であると直感した。この「クラヴサン奏法」はシンフォニアという出版社から日本語訳版が出ていて、入手する事ができた。

この8つの前奏曲は、私にとって初めての、ピアノ演奏によるCDを持っていない=ピアノで演奏されたときの全体像を客観的に把握する事ができない作品であった。

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ピアノ音楽の源流探索2017番外編~ブクスハイム・オルガン曲集

ルネッサンス期に編纂されたブクスハイム・オルガン曲集が、ピアノで弾けないかどうか前々から気になっていた。

IMSLPにアップロードされている楽譜(http://imslp.org/wiki/Buxheimer_Orgelbuch_(Various))は、いちばん上の全集はオルガン用のタブラチューアなので読む事ができず、ピアノで弾いてみようと思ったら2番目にあるブライトコップ社の50曲選曲版しかない。
一方まとまった音源はPayneというオルガニストが弾いた選集がNaxosからCD3枚分出ているのだが、買うのを躊躇していた。

ところがこのPayneの演奏が、同一録音かどうか判らないがyoutubeにアップロードされているのを発見(しかも曲数がNaxosより若干多い気がする…)。

ブライトコップ版に載っている曲で演奏されているものを一通り聴き、幾つかの作品を弾いて触ってみた。

私の受けた感じでは、"ピアノ語"に変換するのには無理がある(ピアノで演奏する事によって作品に別の角度から光が当たるような状況にはならない)という印象だ。
この音楽そのものは大好きなのだが…。

ブライトコップ版に載っている曲で演奏されているものを、曲番/曲名/youtubeに記載されている演奏開始時間の順番で並べた。

7 Gedenck daran du werder 0:01:35
19 Es frölein edel von natuer 0:16:21
20 Es frölein edel von natuer 0:17:59
23 Der Sumer 0:19:33
28 Leucht leucht wünnigklichen 0:24:12
29 Leucht leucht wünnigklicher 0:25:07
32 Der winter will hin wichen 0:28:53
33 Der winter will hin wichen 0:30:10
34 Der winter 0:31:21
43 Portugaler 0:34:24
52 Vil lieber Zit 0:44:15
67 Min Hertz In höhen fröuden 1:10:11
99 Ich beger nit mer 1:49:46
106 Entrepis 1:54:09
109 Recht begirlich 1:59:57
110 Boumgartner 2:01:01
112 Praeludium super D 2:03:58←この開始時間は誤記
113 Wilhelmus Legrant 2:04:02
115 Ein buer gein holtze 2:07:50
118 Mi ut re ut - Venise 2:12:40
119 Aliud Mi ut re ut 2:16:06
146 Des Klaffers nÿd tüt 2:50:45
181 Min hertz In hohen fröuden 3:27:59
189 Incipit Fundamentum 3:35:05
193 Ich laß nit ab 4:09:22
194 Praeambulum super C 4:10:30
195 Praeludium super F 4:11:07
203 Ein frölein edel von natuer 4:17:50
216 Praeambulum super C 4:24:37
232 Praeambulum super D 4:36:33

www.youtube.com

吉田秀和さんの『フルトヴェングラー』(2)

本の中ごろに"フルトヴェングラーのケース"という表題の、示唆に富んだ話がある。

第2次世界大戦前夜、ヨーロッパでファシズムが台頭したとき、楽譜に書かれた内容を忠実に再現することを信条としたトスカニーニは自身の演奏芸術を祖国イタリアからアメリカへとそっくり"植え替え"ができたが、一方、楽譜の行間を読み解くような演奏スタイルのフルトヴェングラーは、祖国ドイツから自身を切り離すことができなかったという指摘だ。

吉田さんはこれを"芸術家が自身を発展させるために自分に合った『風土』を必要とするものと、そうでもないものがある"と結んでいる。

私はむしろ、この2人の取った行動の差異を、"作曲家が楽譜に記入するまでもなかった、読み方にかんする暗黙の了解、身振り、イントネーションは、作品の生まれた『風土』と切り離せなかった"と読み替えてみたい。

ピアノ作品の中で、この"作曲家が楽譜に記入するまでもなかった、読み方にかんする暗黙の了解、身振り、イントネーション"が決定的に違うのが、ベートーヴェンショパンだと思う。

そして戦後、1970年代を頂点として「楽譜に忠実な演奏」の御旗のもと作品を『風土』から切り離した演奏解釈が追及された。

この時期を代表するレコーディング・ピアニストはポリーニアシュケナージだと思う。
この2人の録音は、どちらかというとショパンの方が有名だが、よくよく眺めてみると、ショパンを"ショパン弾きのショパン"から一定距離を置き、同様にベートーヴェンを、ベートーヴェン弾きのそれから一定距離を置いて、各々に等しい距離間隔で再現していると感じる。

ト調のメヌエット

最近、動画を10曲録った記念に、自分へのご褒美として(?)譜読み用の廉価版キーボードを購入した。
夜にこれをリビングのテーブルの上に出して、耳と指の関係がおかしくならないように音色をチェンバロか教会オルガンにして、最小の音量で鳴らして譜読みをする。

このキーボードに何十曲かのデモ演奏が入っていて、その楽譜が付録でついてきた。
そのなかに、アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽帳に入っている有名なト調のメヌエット(実はペツォールト作)が入っていた。
私は子供の頃のレッスンでバッハを一切やらず、このメヌエットも初めて弾いて触ってみたのだが、見事な作品だと思う。
主題が2度目に弾かれる箇所で、左手が対位法的にちょっかいを出してくるところとか(いかにもバッハが好みそうな!?)、そのあと右手の音域がふわっと上がって光が差してくる個所など、味わい深い。

幼稚園児が発表会で弾くような曲なのだけれども…。

youtu.be

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吉田秀和さんの『フルトヴェングラー』(1)

心が和んだエピソード。

最初の章に出てくる話で、作曲家の別宮貞雄さんと一緒にフルトヴェングラーの振る『運命』を聴きに行った吉田さんは、会場で作家の大岡昇平さんとばったり会う。

演奏後に3人で食事をとりながら音楽の事をしゃべるのだが、吉田さんと別宮さんが、ヨーロッパ音楽史上最も良くできた曲と考えている『運命』に対して、大岡さんはいつ聴いても退屈な曲だという自説を展開する。
それを聞いた吉田さんは、決裂するどころか大岡さんの「世間がどう言おうが自分はこう思う」という首尾一貫した態度に、大きな敬意を払う。

このような寛容さというか、対立する意見をも包み込むような視座を、最近の私たちはどこかへ置き忘れてしまっているような気がする…。

ブルグミュラーの思い出

子供の頃に受けていたレッスンでは、25の練習曲を15曲くらいしかやらなかった。

この曲集と再会したのは、たぶん大学生の頃だったと思う。
興味の対象がピアニストから作曲家に戻っていた時期があって、カタログを片手に色々な作曲家のピアノ曲をCDで買って聴いていた。

そのなかにブルグミュラーが入っていて、新たに18と12の練習曲を、たしか芸大教授の田村さんがレッスン者向けに弾いたCDを買ってきて、初めて聴いた。

しかしなぜか私には、この初級者向けの25の練習曲の方が優れた作品集のように思えた。

この25の練習曲の中の数曲は、ロマン派小品のように主観的な感じ方を前面に出して演奏すれば(つまり、レッスン現場で顔をしかめられそうな弾き方をすれば)、一級品なのではないか?

当時私はピアノのサークルに所属していて、演奏発表会でこれを出してみようかと1度ならず真剣に考えたのだが、極度のあがり症で人前で弾くのが大の苦手なので、結局実現せずに幻の計画に終わった。

だから、自分の最良に近い状態の演奏が録画できるようになった時に真っ先に名誉回復(?)してみたいと思ったのが、このブルグミュラーの数曲だった。

 

これが最後。22番「舟歌」。

子供の頃、なかなか丸がもらえなくて苦労した曲。

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