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メメント・モリ、あるいはピアノにかんするエトセトラ

私が人生で出会ったもの・考えたこと

ソコロフのベートーヴェン:ソナタop.106旧録音(eurodisc)

今日聴いたCD

1975年録音のこの旧盤がやっと手元に届き、ソコロフの演奏の変化をようやく聴き比べることができた。

結論として、DGへの新録音は、やはり奏者の年齢相応に音楽が淡泊になっている。良く言えばベートーヴェンの古典性を大事にした演奏といえようか。

一方、私の中でソコロフは、この旧盤の演奏のイメージが強い。80年代以降のopus111への録音と比較すると、音色へのこだわりのようなものがまだ薄いように感じられ、勢いで弾き倒しているようなところがあるが、打鍵は力強く、音楽に覇気がみなぎっている。旧新録音の解釈で一番違いを感じるのは1楽章のテンポで、旧盤では新盤よりも早めの速めのテンポで弾き進めている。eurodiscの録音は、75年のものにしては悪く、マイクの音像(という言葉遣いでよいのかな?)が安定しない箇所が多く聴かれる。

話題のピアニスト

その他

最近巷で話題沸騰の反田恭平さんの演奏を、これまで聴いた事が無かったのだが、リストのソロ作品集のCDをAmazonで試聴してみて驚いた。

ロシア帰りという事だったので、バリバリの現代奏法で弾く若手ピアニストの姿を想像していたのだが、試聴した限りでは、近年稀に見る絶滅危惧種(?)、かなり明確に鍵盤深く打鍵するタイプに聴こえ、私の耳には、まるで一昔前のソ連の戦車ピアニストが時空を超えて蘇ったようであった(わざと固い音で録音しているのかと勘ぐって、その後youtubeにアップされていたライヴを聴いたのだが、この印象は変わらなかった。もっとも、PCとCDプレーヤーでは再生スピーカーが異なるので、判断を誤る可能性があるのだが…)。

いそいで楽歴を確認すると、どうもヴォスクレセンスキーに師事していたようで、この先生の重戦車ピアニズムを若手がそっくり受け継ぐと、確かにこうなるかもしれないと、妙に納得してしまった次第。ロシア流の弾き方を学んだといっても、実に人さまざまである事を再認識した。

 

見た目がマッチョな中村天平さんのCDを持ってきて、どっちの男がどっちのCDを弾いてるかブラインドテストさせたら、10人中9人は間違うんじゃないかな。。。

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ブーニンの20周年記念コンサート・ライヴ(EMI)

今日聴いたCD

レコード会社がEMIになってからのブーニンは、ショパンエチュード集とバラード集しか持っていないのだが、この盤が図書館にあったので聴いてみた。

印象としては、他のEMI期の録音と同様、音が(ついでにペダルノイズも)不必要に大きくなった結果、かつてのブーニンらしい音楽性と相克していると感じる。

1980年代の、軽快な運指と一体になった自在なアゴーギクによる演奏スタイルを発展させるならば、弱音の領域こそ磨かれるべきだったのではないかと思うのだが、このピアニストは、もしかするとリヒテルような演奏を、自身の芸術の到達目標にしているのかも知れない。

EMIに移籍してからのブーニンは、音楽の表現の幅を広げるために音量を拡大する方向へ行ってしまった。しかし、本質的にショパンの音楽は深い打鍵を維持しながら高速に運指できるように書かれていない。

この奏者が今後の成熟の過程で、かつてのブーニンらしさを残したとしても、捨て去ってしまったとしても、その歩む道のりは非常に困難であろうと思わずにはいられない。

天才とはあまりにも無防備に完成され過ぎていて、才能は本質的に諸刃の剣である。

デル・プエヨのベートーヴェン:ソナタ全集(PAVANE)

今日聴いたCD

Amazon.frで売られていたのを見つけた時、購入するかどうか正直迷ったのだが、このタイミングで買わないと入手できなくなる気がして、半ば衝動買いしてしまった。

既に2枚組の選集を聴いていたのだが、この全集を耳にして、この演奏の優れているところを改めて認識することができた。

良いと思うところは、まずベートーヴェン専用に準備されたかのようなタッチが素晴らしい。深くない打鍵による澄んだ音を基調としながらも、所々突き刺す様なスフォルツァートを聴かせるという演奏スタイルは、リチャード・グードのそれを完全に予言している。

そして、こういう奏法をとっているためメカニックの安定度が(1905年生まれの奏者であることを考えれば)非常に高い。

また、楽譜の読みが独特ながら深い。例えばop.109の2楽章は確かにprestissimoに感じるように弾かれているし、あるいはワルトシュタイン1楽章第2主題は右手のテーマが左手に受け渡されるのがはっきり聴こえる事を主眼に弾いていたりと、解釈に唸らされる箇所が結構ある。

一方私が賛同できない箇所は、以前も述べたがドイツ色が希薄な事で、例えば左手の伴奏にのって右手を歌わせるような箇所で、和声進行による陰影のようなものが乏しく一本調子になる事がある(しかし、フレーズの終わりで見事にdimしたりする)。

また、モーツァルトの「右手が何をしているか左手は知らない」という言葉を彷彿とさせるような、右手を歌いこんだ結果左手とずれるような楽句の処理が手癖のように現れるのだが、それほど音楽的に感じられずに崩れて聴こえる。

さらに、ラモンドやシュナーベルよろしく特定の楽句でテンポを変えるやり方が、私にはどうしても馴染めなかった。

結論として、ただ古い奏者の入手しがたい録音だからという理由だけでこの全集をコレクション棚に置いておくほど私はコレクターとして死んでいないが、以前から持っている2枚組の選集を、(こちらは見事な出来だと思っている)グラナドス集の脇にリファレンスとして置いておく価値は十分にあると思った。

オイストラフ&オボーリンのベートーヴェン:ヴァイオリンソナタ「春」「クロイツェル」

今日聴いたCD

1920年以前生まれの、色とりどりの名ピアニスト群の録音を入手するときに、モノラル録音(SPへの録音ではなく、1950年代頃の)を避けたいタイプのピアニストが2種類いる。ひとつめは、ホロヴィッツチェルカスキーなどの「音色の魔術師」、もうひとつが下部雑音の発生を避ける音域をメインにして音楽を構築する奏者である。

なぜだか判らないのだが、この下部雑音の使用を抑えた音域で演奏するピアニストがモノラル録音で録られると、タッチの魅力を一切取りこぼしてしまう。私にとって典型的な例はギーゼキングで、私は彼の遺したわずかなステレオによるベートーヴェンのタッチを聴いて、まさに椅子から転げ落ちるほど驚いたものだが、他にカサドシュ、マガロフなども、モノラルとステレオで印象が激変する。

同じ世代のロシアのピアニストでこれが当てはまるのは、ギンスブルグとこのオボーリンであろう。

この奏者は名声の割に何故か録音が少なく、ソロの演奏でステレオ録音というのを聴いた事が無く、タッチをステレオで確認しようとしたら、このオイストラフの競演や他の幾ばくかを当たるしかない。

ここに聴くオボーリンの演奏は、音楽のつくりは弟子のアシュケナージと似通ったところが感じられるが、打鍵の深さはアシュケナージよりも更に浅い位置を狙って弾いていると感じる。

彼らモノラル~ステレオ初期にかけて活躍した下部雑音を回避する音域で演奏する奏者の打鍵技術が、現代のトップ・ピアニストで主流になっている鍵盤の底への激突を避ける奏法と同質のものかどうかは、残念ながら現時点の私の力量では分からない。

シャンドール・ピアノ教本(シャンドール)(2)

(続き)
2番目に良かった事は、私が何となくやっている最強音を弾くための方法:弾きたい音の上に指をのせて、筋肉の瞬発力と腕のしなりを使って鍵盤を押すやり方が、ピアノを弾くときの5つの基本動作のひとつとして「突き」と命名されて解説されていたことだ。やはりこのやり方は有りだったのだ!
因みにもうひとつの最強音をだすやり方として、手の落下による打鍵も解説されているが、こちらは結果的にそうなってしまう速いオクターブ以外は意識して使った事がない。

逆に期待していて残念だったのは、下部雑音の話と、打鍵の深さの話が出てこない事だ(ただし、鍵盤に無駄に圧力を加えるなとは書いてある)。

シャンドール・ピアノ教本(シャンドール)(1)

読書

いつか読みたいと思っていたのだが、ようやく図書館で借りてきて読むことができた。

読んで一番素晴らしかったことは、長年の疑問が何となく腑に落ちたことだ。

その疑問とは、白鍵をドレミファソと弾いた時の手首の使用に関してである。

ネット上でピアノ奏法に関するサイトを調べれば容易に気付くのだが、ドレミファソファミレドと123454321の運指で弾くときに、手首を回して弾くように指示する奏法(私の昔習っていた先生はこの弾き方だった)と、手首は無駄な動きを極力避けよと言っている弾き方(私が今見てもらっている先生もこの教え)が、2つながらに並存しているのである。

この奏法のどちらが正しいのかを突き止めたいというのが、私のいちアマチュアとしての長年の夢だったのだが、これを解決する考え方が、この教本にのっている。

それは、手と腕を構成する筋肉と骨格の構造から要請される合理的な打鍵位置について論じた箇所(p.81~)で、各指が一番打鍵しやすい状態とは前腕(の筋肉)の延長線上に指がきた状態であり、そのため各指の打鍵に従って手首と前腕の位置は水平方向に動いていくのが良く、さらに親指に関しては、垂直に打鍵するために手首の位置を他の指よりも低くする必要があるという。

従って、この理想に近い方法でドレミファソファミレドと弾こうとすれば、私のように手が大きい弾き手はわずかに手首の位置が動く程度であり、逆に手の小さい人の場合には、手首を長円を描くように回すことになるであろう。

というわけで、結論としては弾き手の体格によって、どちらの弾き方も正しくある。

しかし、ここで重要なのは、手首を回して弾くのではなくて、理想の指の位置で弾こうとした結果、手首が回るという順番を認識する事であろう。

(続く)

ソコロフのベートーヴェン:ソナタop.106他(DG)改訂版

今日聴いたCD

(前からの続き)

この最新盤を聴いて前作からの芸風の激変にがっかりした私は、過去のソコロフの録音で持っていないものを買い漁り出した。

最初に手元に届いたのは、91年録音のベートーヴェンソナタop.7と101他であった。

ここにいつものソコロフを見出して安堵した私の中に、やがて、ふと疑念が芽生え始めた。

「最新盤の録音が、おかしいのではないだろうか??正確に言うと、録音レベルが…。」

私は再びこの最新盤を再生し、スピーカーのボリュームを、通常"8"で聴いているのだが、恐る恐る"13"まで回してみた。

するとどうだろう!いつものソコロフが復活するのだ!

私はすっかり混乱してしまった。

まさか天下のDGが、看板アーティストの最新盤で、このような凡ミスに近い事をやらかす筈があるまい。私が勝手に「ソコロフはこうであって欲しい」という願望を、無理やり音量を上げた演奏の中に投影しているだけなのではないか…。

しかし、今や私の心は、録音レベルが誤っていると見なす方向に傾きつつあった。だとすれば、なぜこのような小さい音でプレスしたのだろう。ピアニスト本人が小さい音で再生されるのを望んでそうさせたのか?そうならソコロフ本人とは別に録音"ソコロフ"はやはり変容していると考えるべきか?いったい我々が耳にしているのは、何割くらいまで奏者本人で何割くらいが録音人格なのか???

最新盤をどの音量で再生すれば良いのか、訳が分からなくなってっしまった私に、天啓とも思えるアイデアが沸いてきた。

実は前作(2008年ライヴ)と全く同じアンコールが1曲あり、このラモーの「未開人たち」が同じ音圧で感じられる音量が正しいのではないだろうか?

2008年ライヴは、音量"8"で聴いていた。

この2013年ライヴを同じに合わせてみた。やっぱり音量"13"だ!!

 

現時点での私の見解:やはり異様に低い音量設定でプレスされていると思われ、通常のCDの1.6倍の音量で聴くべきで、そうするとソコロフの芸風は前作から大して変容していない(結構大きい音で弾いている)。

ハイドシェックのバッハ:平均律第2集より(Polymnie)

今日聴いたCD

平均律第2集5番の譜読みを始めようとしたまさに直前に、トラック1にこの曲が収録された本盤が届くとは、何という巡り合わせだろう!

Amazon.frでひっそりと売られていたこのCDは、ハイドシェックの最新録音で、平均律第2集から12曲が自由な順番で配置されている。

全文がフランス語のみで、部分的に日本語訳が併記されたライナーノートによると、ハイドシェックは2012年頃に命がけの大手術をしたらしく(例の心臓病だろうか?)、ピアニストとして再起できたあかつきにはバッハを録音したいと願い、それが結実したのがこのCDであるようだ。

録音にあたってハイドシェックは万全を期すために、限られた日にちでしか予約できない録音スタジオを拒否し、プロデューサーが保有していた状態の良いCFⅢSを借りて、プロデューサーの家で時間をかけて録音した模様。

従って、このCDの唯一最大の短所は音が悪いことで、奏者のこれまでの録音で言うと一番悪い部類の「テンペスト」と同等か、それ以下である(曲によってばらつきがある)。

それと引きかえに、さすがにハイドシェックのコンディションは大病を挟んだと思えないほどで、まもなく80歳になろうとは信じがたいほどの運指の冴えによる音楽の運びが健在であり、加えてテイチクに録音していた頃にしばしば見せたやり過ぎ・弾きすぎが一切なく、全く自然にバッハの音楽が流れていく(年をとって良いことの一つは、極端ややり過ぎをしなくなると言っていたのは、誰の言葉だっただろうか)。

しかし、それだからこそ、この録音状態が惜しい!どこかのお金持ちの篤志家が現れて、長期間スタジオ貸しきりで続編を作ってくれないものだろうか…。

音楽家の名言-あなたの演奏を変える127のメッセージ(檜山乃武)

読書

よくある名言集で、127もの言葉があれば読み手によって心に響く言葉はそれぞれだと思うが、私は、大好きなクラウディオ・アラウのこの言葉に心打たれた。

「どんなに小さな才能であっても、誠実な気持ちがあれば、その才能には音楽的に伝ええるものがたとえ少しでもある。」

前述のチッコリーニの言葉とともに、座右の銘になっている。

ロシア・ピアニズムの系譜(佐藤泰一)

読書

懐かしい!大学の時に借りて読んだこの本と、図書館で再開した(1992年の初版となっており、今読むといささか古さを感じさせる)。

著者の佐藤泰一さんは、惜しくも2009年に亡くなられたが、アマチュアのピアノ愛好家(本職は技術者)で、ショパン・オタク、スクリャービン・オタクにしてロシアのピアニスト・オタクという、私にとって尊敬すべき大先達である。

したがって、この本は音楽評論家が書いたピアニスト評論集ではなく、言うなればピアニスト大図鑑だ。個々の奏者の芸風に関する記載は少ないのだが、その分取り上げられているピアニストの数が半端ではなく、現在の私が読んでもなお底知れぬマニアぶりである(一例をあげるなら、"ブーニン"が3人取り上げられていて、ヴィクトル・ブーニン、ウラジミール・ブーニンスタニスラフ・ブーニン…最後の人しか聴いたことがない!)。

今回再読して得た新たな発見は、まず、近頃ライヴCDが発売されたアレクサンダー・ボロフスキーの事が結構書かれていて、購入して聴いてみたいと思った。

また、ゴリデンヴェイゼル(ゴールデンバイザー)にベートーヴェンのop.106の録音があるらしく、どこかのレーベルが復刻しないだろうか…。

加えて、より後の世代の奏者で現在録音がそれなりに出回っているにもかかわらず未聴のピアニスト(ゴルノスターエワ、サハロフ、ヨッフェ…etc..)を、あらためて聴いてみたいと思った。

最後に、読んでいて一番笑った箇所は、ソコロフの演奏スタイルを"ギレリスが縫いぐるみを着て戻ってきたよう"と例えたところである。

わが人生(チッコリーニ)

読書

アルド・チッコリーニは必ずしも全面的に好きなピアニストという訳ではないのだが、2000年を過ぎたころからの録音に聴かれる芸格の深化を心から敬っている。

この自伝は、数年前に図書館でパラパラと読んでいたところ、この言葉が目に飛び込んできて、即座に入手を決意した。

「音楽とは何なのでしょう?

神の存在しない教会のための祈り。

そのほかの何ものでもありません」。

ソコロフのベートーヴェン:ソナタop.106他(DG)

今日聴いたCD

(ここに書いた内容は、読んで貰った方には申し訳ないが、その後に聴き直して、考えを一切改めた。改訂版 http://taikichan.hatenablog.com/entry/2017/02/02/001852

今年、ショックを受けたCD第1弾。

CD2のハンマークラヴィーアから聴き出したのだが、これがあのソコロフなのか!?病気でもやったのか!?と思うほど、芸風が変容していた。あの黒光りする様な強奏を一切封印して、まるでこのソナタバロック回帰作であると主張するかのような音楽が流れていく。

100歩譲って、これがハンマークラヴィーアに対するソコロフの解釈なのかと思ってCD1のシューベルトを聴き出したのが、D.946-1に昔の面影がのぞく程度で、演奏スタイルはCD2とほぼ変わらない。

私にとってソコロフの印象は、opus111の一連のライヴ録音によって形成された。豊かなコクのある弱音から火のような情熱を放射する強音まで磨き抜かれた音のパレットを持つのみならず、特にドイツ物を弾いた時などにアフェクトの幅が様式感を侵食することがあっても、作品に対する痛々しいまでの共感に、深く心を奪われる奏者であった。

DGデビュー作である前作の2008年ライヴまでは、ソコロフはこの芸風を保持していた。

しかし本作の2013年ライヴでは、もう以前のようには弾いていなかった。

一昨年に亡くなったチッコリーニは、簡素な自伝『わが人生』の中で述べている。

「人は単に自分の年齢と共に演奏するのです」。

しかし、ソコロフのこの変化は、どちらかというと私を哀しい気持ちにさせた…。

アルゲリッチの録音に聴かれる音

徒然なる日記

自分が書いたものを読み返していたのだが、"アルゲリッチは鍵盤を底まで弾かない"とだけ書くと、(このブログの想定読者である、私と同じくらいピアノ好きに成長した息子から)「底を弾いている音が聴こえるじゃないか」と反論が有りそうなので、補足しておきたい。

私の聴く限りでは、鍵盤を底まで弾いてなさそうなピアノの音の粒立ちが聴ける奏者は大雑把に分けると2タイプいて、

(1) 相応のフォルテやアクセントが必要なパッセージでは、容赦なく底までしっかり弾く奏者

(2) 相応のフォルテやアクセントが必要なパッセージでさえも、底への衝突を極力回避しようとする奏者

このふたつは完全に明確に分離できる訳ではないが、私の耳にはアルゲリッチは(1)のタイプ、"底まで弾かない奏法がビルトインされたピアニズムを持つ奏者"に聴こえる(ジャンルの壁を越えてオスカー・ピーターソンが似ていると思う)。

底まで弾かないアルゲリッチを一番よく味わえる録音は、実はDGへの正規スタジオ録音ではなく、2000年のすみだトリフォニーホールでのライヴ録音である。

スクリャービンとスクリャビニスト(SAISON RUSSE)

今日聴いたCD

有名なop.8-12を含む小品8曲が作曲家自身の演奏で残されており、大変明瞭な録音でソフロニツキーにそっくりの呪術的ピアニズムを堪能することができる(正しい順序でいうと、娘婿であり伝道師のソフロニツキーが作曲者にそっくりというべき)。

この録音には裏話があり、1910年録音と記載されているのに驚くほど明瞭なのは、スクリャービンが1910年にピアノロールに記録したものをモノラル録音期の時代に録音したものが原盤になっていると考えている(解説書にはシリンダー録音と書いてあるが、大嘘だ)。

実際このピアノロール7曲がコンドン・コレクションとしてヤマハのC7で再生された録音が、私が若い頃にBellaphonから(国内盤はDenon)発売された。録音こそデジタルだがあまりに雑な演奏で、それでも作曲家本人の演奏だからと大事に持っていたところ当録音に出くわし、演奏が持つニュアンスの格の違いに驚き、呆れた。

このコンドン・ロールの再生環境をブックレットの写真で見ると、演奏者が録音したロールを、88鍵分の打鍵用のばち(?)の付いたフォアゼッツァーと呼ばれる機械にセットし、これをピアノの前に置くようだ。

したがって、よくよく考えてみると当たり前なのだが、ピアノロールをちゃんと再生しようとしたらロール再生側だけではなくてピアノの方を録音当時と全く同じ機種・調整にしなければ、タッチのニュアンスやペダリングなど一瞬でガタガタになってしまうだろう。

このピアノロールからまともな録音をつくろうとしたら、演奏者と同門のピアニストやピアノ教師、ピアノマニア、ピアノ技術者などがよてったかって議論を重ねて、ようやくまともな録音が1枚作れるかどうかという、そのくらい難易度が高い作業と考えられる。

この事実に気付いて以来、ピアノ・ロールのCDで聴いてダメだと思ったものは、大半はコレクションから削除してしまった。

このスクリャービンの自作自演のCDは、そんな中で奇跡的に成功したピアノロール録音の最高傑作のひとつである。