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メメント・モリ、あるいはピアノにかんするエトセトラ

私が人生で出会ったもの・考えたこと

「レヴィナスと愛の現象学」(内田樹)抜粋・超訳(1)

読書

ネットを開いたら、内田先生の著作批判の文章が目に飛び込んできた。

いつか読書録を書こうと思っていたのだが、まさに天から与えられた機会と思い、書く。

内田先生は、私が一切面識がないにもかかわらず、「先生」と呼ばずにはいられない唯一の同時代人である(私の父がほぼ同い年)。先生の著作に初めて出会ったのは、息子が生まれる直前、30代前半の頃で、図書館で借りてきて片っ端から読んだ。それはまるで神様が「お前も父親になるのだから、世の中がどういう構造になっているか、もう少し知らねばならない」とめぐり合わせて下さったとしか思えないタイミングだった。

 

レヴィナスと愛の現象学」の第1章に含まれる洞見を、抜粋、超訳してみる。
私見では、この本はピアノの弾き方について書かれたものである。

・再現芸術家の一人一人は代替不可能な仕方で作曲家とその作品を完全に理解することができない。その事実が再現芸術家自身の「かけがえのなさ」を根拠づける。作曲家の「他者性」(偉大さ)は、再現芸術家の一人一人を起点にしてしか「かたち」をとることができない(p.31)。

・作品の「複数の演奏可能性」は、決して作品の「恣意的な再現」を意味しているわけではない。主観的妄想と主観的独創性を峻別する「ルール」が存在する(p.39-40)。

・あらゆる楽曲において「再現芸術家が演奏し得る内容」は「作曲家が本来意図した演奏」よりも宏大であり、深遠である。そして、あらゆるすぐれた作品は、この二つの契機を同時的に含んでいる。「再現芸術家が演奏し得る内容」と「作曲家が本来意図した演奏」は同時的に同水準にあり、前後関係や因果関係や上下関係のような因習的な差別化を試みてはならない。

この「音楽の過剰」が生じる由来は、まず、再現芸術家が全身全霊を上げて再現しようとするのは「封印」された楽譜であり、それぞれが感じた楽句への激しく強い思い入れを通じて「封印された音楽の意味」を解き放つ仕組みになっている。

次に、演奏にはある特有の歴史的、文化的、身体的な具体性を背負った演奏者が生身の実在を作品のうちにねじりこむように介入し、これをレヴィナスは「懇願する(わが身に引き受ける)」と述語化している。

懇願は個人から出発する。目を見開き耳をそばだて演奏すべき作品の全体に注意を傾け、同時に実人生に、都市に、街路に、他の人々に同じだけの注意を傾けるような個人から。演奏家はこの具体性により他の誰をもってしても代え難いような仕方でユニークであり、その「代替不可能性」が演奏資格を構成する(p.73-77)。

(続く)

 レヴィナスと愛の現象学 (文春文庫) | 内田 樹 | 本 | Amazon.co.jp