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メメント・モリ、あるいはピアノにかんするエトセトラ

私が人生で出会ったもの・考えたこと

「レヴィナスと愛の現象学」(内田樹)抜粋・超訳(2)

読書

(続き)

主観的妄想に堕する可能性のある演奏と主観的独創性を発揮する演奏を峻別するのは何か?

p.83-99より、かなり抜粋・意訳

 

再現芸術家が発揮する主体性(個性)には、「オデュッセウス的主体性」と、「アブラハム的主体性」が存在する。(この二つはクリアカットに二項対立しているわけではなく、しばしば絡み合って存在している)。

 

オデュッセウス的主体性にとって「未知なる作品」は、経験され、征服され、所有されるために存在する。

オデュッセウス的主体性は自己の音楽語法の絶対性を保ったまま「未知なる作品」をつぎつぎとおのれの養分として摂取し、その適用範囲を拡大させていく。

 

一方アブラハム的主体性は、自己の音楽語法では、その全体像を決して把握することができない「絶対的に未知なる作品」からの呼びかけによって生成する。この「未知なる作品」は彼を不意打ちし、彼の音楽世界には理解を絶する「外部」が存在することを告知する。
彼は、この作品を彼の音楽語法の線形結合として自身の世界の中に回収することは決してできないと自覚しつつ、なおもその作品の意味を、おのれの全責任において解釈しようとする。こうしてアブラハム的主体性が立ち上がる。

この、「唯一絶対的に真なる演奏というものが私を軸とした世界認識の中には決して回収できないことを自覚して、なおも、より真なる演奏に到達しようとする努力」こそが独創性を持った主体性(個性)である。

 (第一章完)

 

【訳者補筆】

私は、若い頃は、ピアニストは個性を発揮して作品を解釈するものだと思っていた。

しかし歳を取って、今は、ピアニストは全人生をかけて作品を引き受けるものだと思っている(ので、内田先生のこの本が、このように心に映る)。

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