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メメント・モリ、あるいはピアノにかんするエトセトラ

私が人生で出会ったもの・考えたこと

応用数学発、内田先生とピアノ経由、ゲド戦記行きの着想(2)

読書

【双対的に絡み合った私‐他者の関係を片側のみから解決しようとすることの不毛さ】

(3) 「私の身体は頭がいい」(内田樹)~太刀について

ここで内田先生は、「私-剣」の双対を一方を主、もう一方を従として安易に解決するのが不毛であることを書かれている。

即ち、

・剣の存在そのものが「負の条件づけ」となっていて、(私を主、剣を従ととらえて動かそうとすれば)うかつなところに剣を擬したら、指は落ちる、手のひらには穴が開く、頸動脈は切れる…もう大変である。

・(剣を主、私を従ととらえた身体運用では)私たちは剣に振り回され、術理を無視した無理無法な軌跡を描いて四肢が動くようになる。

(そして、剣は他者であり、終わりなき対話のうちに共存するしかないと結論されている)。

 私の身体は頭がいい (文春文庫) | 内田 樹 | 本 | Amazon.co.jp

私がピアノを弾く人間として、またピアノのCDを集める人間として共鳴すること、即ち「私の音楽-真なる音楽」の双対を片側のみから解決しようとすることの不毛さを、私が経験した感覚として書いてみたい。

・ 唯一の真なる音楽が存在するという考えを主軸とする頻度主義的な見方に片寄った場合に、CDコレクターは真なる音楽の最大公約数と考えられる、例えばレコード芸術の特選盤をことごとく集めるようなやり方になってしまい、コレクションから「私」が喪失する。ピアノを弾く場合は「フォルテと書いてあったら、どこどこの弦を何ニュートンでたたく」というような自動演奏ピアノにMIDI打ちするような方向に向かってしまい「ピアノを弾く私」が消滅する。

・ 私が良いと感じる音楽の判断基準を主軸とするベイズ主義的な見方に片寄った場合に、CDコレクターは「作品」の姿を好きな演奏の総和として捉えてしまい「作品」が「他者性」(無限の意味を引き出せる可能性)を喪失する。ピアノを弾く場合には作品の気に食わない箇所に音を加えたり、果ては楽句を追加・削除したりする方向に走ってしまうかたちで「私に弾かれる作品」の他者性が消滅する。