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メメント・モリ、あるいはピアノにかんするエトセトラ

私が人生で出会ったもの・考えたこと

ヴィルヘルム・ケンプの生誕120周年記念に敬意を表して

2011年の日付で、当時の考えを書いたものをPCの中から発掘した。

(現在の私には、もう少しだけ付け加えられるものが有る…)。

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ケンプの演奏を客観的に論じるのは、私には無理な話だ。

自分にとっての音楽体験の原点が、中学生のときにテープがのびるほど聴いたケンプの三大ソナタであり、音楽の感じ方が深層意識の中に刷り込まれている。

多少お小遣いの増えた高校生時代、1990年代後半はネット情報社会前夜であり、クラシック需要は評論家主導型をとっていた最後の時代であった。
ピアノバカ駆け出しの私がCDをコレクションするために推薦本を開くと、ベートーヴェンソナタ全集の歴史的名盤の項には皆、バックハウスと書かれていた。

それは、大量消費社会への若者らしい反発心だったのかもしれない。私は、皆がバックハウスが良いと言うからバックハウスに買い換えて良しとする行為が、どうしても許せなかった。
私の最初に聴いた、このケンプというピアニストは、どういう奏者だったのだろう?

以来、ケンプの残した録音とともに彼について書かれているものを少しづつ集めていき、いろいろな事を知った。
かつてはベートーヴェン弾きとして一世を風靡していたこと…。ヴィルトゥオーゾ・ピアニズムの復権果たした当時(1990後半)では、やや忘れ去られた存在であること…。

ケンプのピアノ演奏の特徴は、一般的に「人間味豊かで優しい」と言われている。
一方、内田光子さんは「ケンプの演奏にはふわっと浮いて心が震える瞬間があって、私もその瞬間のために演奏している」というような事を言っていて、私はこの言葉に一番共感を覚える。
たとえばベートーヴェンソナタ、激情の噴出を期待する聴き手はがっかりするほど気負いの無い演奏の中に「偉大な、神秘的なものに触れる瞬間」があり、私の心を捉えて離さなかった。

また、ケンプのピアノは、技巧的に脆い点がしばしば取りざたされる。
私も学生の頃は気になって仕方がなかった時期があったが、現在では全く気にならなくなっている。それは、私自身のピアノの腕が多少なりとも向上した結果か、歳のせいか、ケンプのレコードが自分の音楽的アイデンティティの代弁者の役割を終えた結果か分からない…。

そんなこんなで、ケンプは私の人生の中で特別なピアニストであり続け、その後もDVDで演奏姿に触れたり、自伝を見つけて読んだりしていた。

そして近頃、またちょっとだけ気付いたことがある。

最近バッハの作品を集中的に勉強していて直感したのだが、バッハの作品を弾いているときに訪れる、何か偉大なものに触れたという感覚、自分の指が偉大なものによって動かされて音楽が紡ぎ出されて行く感覚が、ケンプの演奏を聴いたときにもたらされる感動と同質のものなのだ。

この二人の音楽家が全く同じ土壌から生まれてきたことに、そしておそらくプロテスタントの万人司祭の信仰に立脚している事に、私は何となく気付かされた。

バッハの作品に神様が宿っているように、ケンプの演奏にも神様が宿っている。
万人司祭の言葉を借りれば、靴屋が靴を作ることで神に奉仕するように、バッハは音楽を作曲することで神に奉仕し、ケンプはピアノを演奏することで神に奉仕していたのだと思う。

ケンプの晩年に到達した演奏スタイル、神秘的なまでの敬虔な祈りと田舎くさい程の素朴さが同居したピアノは、ケンプが幼少時を過ごした田舎ユーターボークの教会の心象風景であり、実はバッハの音楽を育んだアイゼナハの風景でもあるのだろう。

ケンプは広島原爆記念公園での演説で、ゼーダーブルムの「バッハこそ“5人目の福音史家”」という言葉を引用している。
私にはケンプが“6人目の福音史家”に思える。

(2011年12月20日)