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メメント・モリ、あるいはピアノにかんするエトセトラ

私が人生で出会ったもの・考えたこと

ナウシカの墓所破壊(風の谷のナウシカ 第7巻)

年末年始にかけて漫画版「風の谷のナウシカ」を再読する機会があり、圧倒的に面白かった。
初めて読んだのは24歳の時で、以来、私にとって漫画の最高傑作であり続けている。

当時は、清浄と汚濁とに分離してしまってはならないという指摘と、ナウシカの死生観に共感しつつ、第7巻の強烈な設定転回に大変な衝撃と消化不良を覚えたのを記憶している。

今回読み直して、少しは馬齢を重ねて作者が何を言いたかったか(底が)理解できるかと期待していたのだが、とんでもなかった。
これは壮大で豊饒な複素的作品であり、ナウシカファンは、ここに書かれたことを全身全霊をもって考えなければならない。

現在の私にどう映るか、感想を述べる代わりに、クライマックス「墓所破壊」の場面の、完全に主観的なあらすじを記したい。
(これは作品を演奏するピアノ奏者と同じ姿勢だったりする)。


ナウシカ墓所破壊(風の谷のナウシカ 第7巻 P194~)

現在生きている者たちの生を顧みない全体主義的な再生計画を遂行する墓は、ナウシカ自身の経験から得られた生きることの意味と、真っ向から対立するものだった。
現在の人類は青き清浄の地にたどり着けないという真実を隠して協力を要請する墓だったが、ナウシカは、生命の尊厳が辱められたと感じて激昂してしまう。この場面は第1巻でトルメキアに雇われた蟲使いの大ナメクジに辱められて激高する場面の完全な変奏である。

もしナウシカが、完全に成熟した「彼方を見た者」だったとしたら、この墓さえも生命であることに気付き、自分自身の可能性、罪の一部として受け入れ、慈愛の光で包み込んだと思う。
この墓を作ったのもまた人間で、ナウシカが火の7日間前後に生まれて、この墓づくりに加担したという「実現しなかった過去」「実現しなかった罪」を受け入れたはずだ。

それは、あたかも王蟲が粘菌(最も悲しい生物)を自分たちの一部として身体を具して受け入れたように。(そしてそれは、あたかもバッハがマタイ受難曲においてユダの滅びを撤回して「一族の放蕩息子」として許したように…)。


しかし、激昂したナウシカは、墓の主と口論になってしまう。

そして、ここが第1巻の場面との最大の違いなのだが、この場に、父=ユパ=天蓋的なもの(先生の言葉を借ります)が、現れないのだ。
クシャナの時には、トルメキアと土鬼、人と人との対話の場(これが保証されていていてこそ、各人は、自分の立ち位置を前面に出して激昂したりできるのである)が崩壊するのを身を挺して防いだ父=ユパ=天蓋的なものが、ナウシカと墓、生命とかろうじて生命という、想定を超えた2者間の対話の場を保つためには現れない。

結局ナウシカと墓はそれぞれの信念が平行線のまま武力衝突に至り、なし崩し的に、かろうじて生きていたオーマの力によって、ナウシカは墓をひねりつぶす。

死にゆく墓の中で、死にゆくオーマをみとったナウシカは、しかし、アスベルに助けられる。

最後にナウシカは、墓の体液も王蟲と同じ青色であった(墓もまた生き物であった)事に、気づくのである。