メメント・モリ、あるいはピアノにかんするエトセトラ

私が人生で出会ったもの・考えたこと

葉っぱのフレディ(2)

図書館から借りてきて3日目の今朝、息子のプラレールの騒音により6時前に起こされる。2度寝しようとして寝床であれこれ考えているうちに、この問題が自分の中で何となく腑に落ち、生温かいうちに書き記しておきたいと思った。

私が今朝思ったのは、これだ:原著がキリスト教的な思想で書かれているものを、東洋的な思想体系に接ぎ木してしまっている。

 

(1) この物語の頂点は、ここだ。

"Then what has been the reason for all of this?" Freddie continued to question. "Why were we here at all if we only have to fall and die?"

Daniel answered in his matter-of-fact way, "It's been about the sun and the moon. It's been about happy times together. It's been about the shade and the old people and the children. It's been about colors in Fall. It's been about seasons. Isn't that enough?"

西洋人が「無」の思想を翻訳できないのと一対となって、我々はダニエルの回答をうまく翻訳できない。

ななさんの意訳は、ざっとこんな感じだ。

フレディ「僕らは、生まれてきて、よかっただろうか…?」

ダニエルは深くうなずきました「ぼくらは、本当によく働いたし、よく遊んだね。周りには月や太陽や星がいて、雨や風もいて、人間に木陰を作ったり、秋には鮮やかに紅葉してみんなの目を楽しませたりもした。それはどんなに楽しかった事だろう。それはどんなに幸せだったことだろう。」

 

ところでシュヴァイツァーは「キリスト教世界宗教」の中で、東洋思想や仏教は一元論的であり、キリスト教二元論的であると述べている。これを私なりのたとえ話に落とし込むと、東洋思想や仏教は、"私"と”神様・造物主・偉大なるもの”を、数直線上のプラス側とマイナス側に配置する。一方キリスト教は、この2つを実軸と虚軸に配置する。だから前者はゼロ点(無)で邂逅し、後者は永遠に交わらない。

シュヴァイツァーは、前著でこうも述べている。キリスト教で、我々個人の倫理的な行動によって神の国の状態が地上に実現させられるという概念は、キリスト教を近代的に解釈しようとしたがために生じた誤りであると。キリスト教は元来その倫理的強度を保つために論理性(世界の説明)をある程度放棄しており、本質的に不条理なままの世界の中にあって直も、神の御心において倫理的な行動を要請している:「汝が世界の中にて生き、そして世界とは異なるものとして働く」。

これが、フレディとダニエルの対話に秘められた内容である。

フレディの「我々が生きている意味って、何?」という質問にたいして、ダニエルは、ななさん意訳のように「生きて楽しかったよね、幸せだったよね」とは答えない(この意訳が東洋思想的かどうかも、十分考える余地がある…)。

ダニエルは論理的な答えを放棄して、ただ、彼が"葉っぱ"として神様から与えられた役割を全うしたと思った、その「体験」を答え、そこに満足を見出すのである。