読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

メメント・モリ、あるいはピアノにかんするエトセトラ

私が人生で出会ったもの・考えたこと

檜山さんの"3Dでニョロニョロしたい"を読んで

読書

仕事場で、最近は比較的勉強時間がとれ、フーリエ変換の改良のためという大義名分のもと双対性のことを考えている。

日ごろ参照させていただいている檜山さんのページの3Dでニョロニョロしたいの指摘:「圏論での自然変換がベクトル空間の双対性の議論での線形写像に対応している」という個所を考えていて、今日ふと思った事。

私が漠然と双対性を感じている物事は、「自然な同型」と「自然ではない同型」に大別して考えねばいけないのではないか?

(1) 自然な同型になっている:ある共通の事象を示す2つの表現が1対1対応になっている

・ある状態を、シュレーディンガー表示で書くか、ハイゼンベルク表示で書くか

・系が時間発展するのか、演算子が時間発展するのか

・男がピアノを弾いているのか、ピアノが男によって弾かれているのか

(2) 自然な同型になっていない:ある共通の事象を示す2つの表現が1対1対応になっていない

・1次元の実信号データ数列と、そのスペクトラム解析データ数列(フーリエ変換。実信号データのひとつの数値が、変換後のデータ数列のすべてに少しづつ影響しているような関係になっている)

・谷村さんの教科書の例で、健康診断の場面での{太郎、はな子、…}と{身長計、体重計、…}:言うまでもなく、上の例から演繹して説明されている、ベクトル空間上のVとその線形汎関数V*との関係ではなく、VとV**の関係によって自然変換が説明される。

吉野家で、店員が運んできた料理を「これは牛丼とカレーです」とみるか「これは玉ねぎと牛肉とごはんとカレー粉と福神漬けと…です」とみるかだが、牛丼=玉ねぎでもないし、カレー=牛肉でもないが、牛丼=牛丼の材料である玉ねぎと牛肉とごはんと…によって料理されたものという認識は自然な道化同型になっている。

おなかすいた…。