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メメント・モリ、あるいはピアノにかんするエトセトラ

私が人生で出会ったもの・考えたこと

永遠的なものの継承様式2

(続き)

(7) ここで、具体例として私が人生の物事を考える上での最良の物差しであるピアノの話になる。

(8) エトヴィン・フィッシャーの「音楽観想」の中に、ポツダムでのマスターコースにおける速記録が収められており、バッハのBWV.911を語るシーンが出てくる(p.131)。

(9) この中でフィッシャーは、この作品はあるところはチェンバロのように書かれており、また別の個所はオルガンのように書かれており、近代ピアノで余すことなく表現するのは不可能なまでに難しいと述べたうえで、バッハがこの曲に込めた"理念"を実現するために、フーガの終結部のいくつかの音をオクターヴ重ねて弾くようにと提案する。

(10) ここで突然だが、演奏する楽器がバッハの想定したオルガン+チェンバロの性質を備えた楽器ではなくてピアノであるという条件が前述の「勾配ベクトル」に相当し、いくつかの音をオクターヴ重ねるなどの方法論が「速度ベクトル」に、バッハの理念が「座標不変量」あるいは内田先生が書くところの「師が仰ぎ見ているもの」に相当するというのが、私が述べようとしている暴論の根幹である。

(11) 仮にフィッシャーがチェンバロによってこの曲と相対していたら、この曲の持つオルガン的な部分に対応しようとしてテキストさえ変えようとしたであろうし、オルガンによって相対していたとしても逆のことを考えたであろう。

(12) 奏者がその音楽の中にイデアルな何かを見出しているとき、その普遍的なものを保つために、奏者に課された制約条件によって、表現手段を変えうるであろう。

(13) 逆に言うと、その音楽の持つ普遍的な何かは、制約条件が変わった際に、表現手段が変わることによって保存されるであろう。

(続く)