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メメント・モリ、あるいはピアノにかんするエトセトラ

私が人生で出会ったもの・考えたこと

バックハウスと「風の谷のナウシカ」映画版に共通する豊かさについて

徒然なる日記

風の谷のナウシカに登場する人類は腐海の毒(カビ)に苦しんでいるが、実家に帰省した私はハウスダスト(カビ)に苦しんでいる。😭

眠れない夜に、このふたつを結び付けてまとめておくというアイデアかぼうっと浮かんだので、忘れないうちに書いておきたい。

昔、確かリリー・クラウスバックハウスの演奏スタイルに関して「普通のピアニストがああいう風に弾いたら退屈になってしまう筈なのに、バックハウスではそうならないのが不思議」みたいな事を述べていたと記憶している。
“ああいう風”とは戦後に主流をなした原典(楽譜)至上主義に通じるようなザッハリヒなスタイルである。
しかし、バックハウスのピアノによくよく耳を傾けていくと、そうではない側面というのが豊かに内在しているのに気づく。
漠然と思うに、この人は最終的にザッハリヒな演奏スタイルに落ち着くまでに、当時主流だった表現主義やら精神主義やら、あるいは曲芸的なピアニズムなどを若い頃にひととおり通過したのではないだろうか。演奏家人生の歩みと共に不要になっていったこれらの名残が、実は要所要所に残っていて、それが後の世代の演奏家と決定的に異なった内的豊かさを形成している。

さて、一方の“ナウシカ”。
私はこの映画版を「天空の城ラピュタ」と共に小学生の時に観た。当時の私は、この二作を通じて宮崎駿さんが投げ掛けたかったテーマは【人間の愚行と、それをも受け止める自然との共生】であると安直に受け止めたうえで、しかしナウシカのほうに歴然とした深みのようなものを感じていた。
その後に漫画版“ナウシカ”と出会って今にして思うのだか、映画版ではエンターテイメントものとして申し分のない万人向けの結論に着地してしまうが、ナウシカで用意された世界とキャストは、そうではない結論の可能性に対して開かれているのである。
以前、宮崎さんが映画版“ナウシカ”を作成した状況の記事を読んだ事があり、映画版をあのように着地させてしまったのを悔いているというのを知った。
しかし私はふと、そうではない終結部を形成する可能性のあった名残の存在こそが、映画版“ナウシカ”に決定的な内的豊かさをもたらしているのではないかと思うのである。