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メメント・モリ、あるいはピアノにかんするエトセトラ

私が人生で出会ったもの・考えたこと

11ぴきのねこ(馬場のぼる)

読書

少し前の休日、夜寝る前の息子に、今晩はどの絵本を読んでほしいか尋ねたときに持ってきたのが、この絵本だった。私はこのとき初めてこの作品を読んだのだが、大変な衝撃を受けた。まるで作者の馬場のぼるさんが、読み聞かせしている親に向けて「我々日本人は、こんな感じだよね」と語りかけているように思えた。

終結部に至るまでのストーリーは、私には太平洋戦争の、南方戦線を模しているように思える。こんなかんじだ。

おなかをすかせた(資源の乏しい)「ねこたち」が、肥沃な「おおきなさかな」の存在を知って海みたいな湖に進軍し、これと対決するために島にたてこもる。「おおきなさかな」と正面からまともに戦って勝つことができず、夜襲によって勝利する…。

圧巻の終結部は、我々が本質的に併せ持った狡猾さのようなものをあぶりだしたように思えたが、具体的な事案が思い浮かばないでいた。

ところが昨日、飛行機の中で内田先生の「日本辺境論」を読み直していたところ、これとぴったり符合する歴史的事態を目の当たりにしたのである。

それは、日露戦争を戦うにあたって掲げた”列国による中国の分割蚕食をこれ以上進めず、中国の主権回復と市場の成熟を待つ”という「正義」(これによって諸外国の協力を取り付けた)を、戦争に勝利するや翻し、率先して中国を蚕食して行ったという、朝河貫一の視点の引用である。

もちろん歴史の捉え方には、ショパンの演奏スタイルと同様に、複数の"真実"が存在しており、この引用こそが歴史の真実であるというつもりは毛頭ない。

しかし、絵本の終結部は、こうだ。

「ねこたち」は勝利の当初、捕らえた「おおきなさかな」にいっさい手をつけずに持って帰るという大義名分を掲げていた。

しかし一夜明けてみると、そこにあったのは、「おおきなさかな」をすべて食い散らかし、互いに何食わぬ顔をして寝転がっている「ねこたち」の姿であった…。

私は、この絵本が近代の戦史の隠喩であるなどと決めつける気は一切ない。

ただ、楽譜の行間を読むのが趣味のアマチュアが、そんな可能性まで考えてしまうような、面白い絵本である。