メメント・モリ、あるいはピアノにかんするエトセトラ

私が人生で出会ったもの・考えたこと

ヴィルサラーゼのシューベルト:ソナタD.664ほか(Live Classics)

私が指摘するまでもなく、「美しさ」には、変換(写像)によって美しさを保つものと、失われてしまうものがある。ある種の文学作品は翻訳に耐えられるだろうが、翻訳したとたんに壊れてしまう作品がある。また、ある種の絵画は縮小コピーされて美術の教科書に載っても求心力を保つが、その良さを消失してしまう絵もある。音楽作品でいうと、バッハやベートーヴェンは楽器や楽譜の読み方が変わってしまってもその偉大さは残るが、オリジナル楽器で演奏されて初めて良さが分かる作品もある。

なぜこんな事を考えてしまったかと言うと、エリソ・ヴィルサラーゼの近年の録音が全てライヴ録音しかなく、取られた音の状況が著しく異なるのである。そして私の聴いた限りでは、ヴィルサラーゼの弾くシューマンショパンは録音状態が多少悪くても何がしかの感銘が残るのだが、シューベルトでは消失してしまうのを体験した。

この盤に収録のD.612、D.924、D.664は1997年12月22日の録音、D.915とD.946は1998年1月4日の録音である。前者の内のD.664の2楽章までは、ひょっとするとリハーサルを録音したものではないかと思うのだが、ヴィルサラーゼの音色の美しさをマイクが完全に捉えていて、その祈りに満ちた演奏に感動する(このライヴは同年に亡くなったリヒテルに捧げられている)。ところが、3楽章(観客のノイズが有り、明らかにライヴ)と1998年の演奏では録音状態が一変し、大変残念なことに、魅力の大半が消失してしまうのだ。

ヴィルサラーゼの録音は、大曲を弾いた盤しか持っていないのだが、私の聴いた中では、このシューベルトの前半の録音状態がベストであった。こういう事態を目の当たりにすると、このピアニストの録音をすべてかき集めて、徹底的に仕分けしたい誘惑にかられる(いつもの中毒症状だ…)。