メメント・モリ、あるいはピアノにかんするエトセトラ

私が人生で出会ったもの・考えたこと

ふたたび「風の谷のナウシカ」について

漫画版「風の谷のナウシカ」は魅力的な作品で、その放出する磁力に、私は定期的に引き付けられている。
最近また考え直す機会があって、今度は何か水脈のようなものにぶつかったので、生温かいうちに書いておきたい。


発端は、初めて「教育勅語」を読んでみた事である。

例の幼稚園の話がニュースになり出した時、「教育勅語」という単語には、そういえば受験勉強の時覚えたなぁ…くらいの感慨しかなかった。しかし、小田嶋隆さんが「ピース・オブ・警句」で取り上げられていたのを機会に、どんな内容か目を通してみて、凍った。

引っ掛かったのは、やはりこの個所である。
「祖国の存亡の危機には、祖国の存続のために身を捧げましょう」

この文体がなぜ最高に危険かというと、一読して危険を感じないからである。

われわれ人間は、自分の所属する偉大なるもののために自己を犠牲にすることができ、しばしばその時に最大の力が発揮され、それは最も美しい行為のひとつに分類されている。

例えばヨハネ福音書には、こうある「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」。
あるいは、少年漫画の主人公は、しばしば彼の所属するチームのために自己を犠牲にし、それは最も美しい場面だ。

かくして、この「自己犠牲」が放つ神聖なまでの美しさのために「偉大なものの為に自己を犠牲にすること」が「偉大なものの為に他者に自己犠牲を強いること」に言い換えられた時の薬が毒に激変する様に気がつかないのである。

 

ここで私は、この神聖なまでの美しさが引き起こす熱狂を徹底的に避けようとしていた人と、その著書を思い出した。
フルトヴェングラー」の吉田秀和さんである。
この本を読み返して、しかし私が気付いたのは、ひとり吉田秀和さんのみならず、戦後スキームそのものが「神聖な美」や「宗教的なまでの美しさ」を文化の中核から排除しようとしていたという事である。それは恐らく、これらが絶対的な善に近い程の美しさを持つがゆえに批判的な立場というものが伴えず、その危険性を歴史を経て痛感しているからである。

(ところでピアノ演奏におけるこのスキームの完成形が 私見ではポリーニアシュケナージで、彼らの演奏が「神聖なまでの美しさ」を持たないと感じるとき、こういう歴史的背景によって時代が選出した代表者である事を考えねばならない)。

 

この「神聖なまでの美しさ」のはらむ危険性を最も見事な形で示したのが、実は「風の谷のナウシカ」であった。
現在の私は、こう考えるようになった。

よく言及されているように、漫画版ナウシカはアニメ映画版ナウシカのアンチテーゼであり、作品として対を成している。
そして、アニメ映画版ナウシカの聖なる少女の神話が、批判的な視点が一切考えられないほど絶対的に近く美しいがゆえに、同一人物の延長である漫画版ナウシカが最後の墓所破壊のシーンでとる行動の危険さに、見事なまでに気づかないという構造になっている。
実際に私自身、ナウシカの取る行動に9割まで共感し、残り1割でざらっとした違和感を感じる。宮崎さんが、これでもかとばかりに「新人類の卵」を破壊するシーンを描いているにも拘らず、われわれ読み手は、卵から生まれる新しい人類を主人公たち旧人類と同じく人間と見なせる可能性に対する想像力を、ほとんど失ってしまっている。

この、想像力が欠損する問題は、たぶん汎人類的な課題である。