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メメント・モリ、あるいはピアノにかんするエトセトラ

私が人生で出会ったもの・考えたこと

音楽史‐古楽との出会い

新年度から土曜の朝に息子が習い事に出かけることになった。

そこで、新しくできた自由時間を、古い鍵盤音楽をピアノで演奏できる可能性の探索に使う事にした。

今日はこの辺の個人的な考えを書いておきたい。

子供の頃、クラシック音楽の世界にピアノから入った私は、いつしか自然と、ドイツ・ロマン派を中心とした音楽の捉え方・感じ方を刷り込まれてしまっていた。

これは、バッハを仮想原点とするドイツ・ロマン派がクラシック音楽の中心にあり、和声的な複雑さを増しながら発展していき、シェーンベルクに至って崩壊するという進化論的な音楽史観である。

ところで人は、規定のパラダイムで捉えきれない境界線に触れるとざらっという感覚を感じるようにできているものらしい。

このクラシック=ドイツ・ロマン派と言う見方をしていた私にとって一番それを感じたのは、バッハの幾つかの後期鍵盤作品であった(2番目はモーツァルトソナタである)。

そして大学生の頃、音楽史の勉強をする機会があって、目を開かされた。

その教えが私に残したものをまとめると、ヨーロッパ世界は約300年周期で宗主国が崩壊し、これにあわせるように西洋音楽も地層を形成していて、層と層の狭間で過度に技巧的かつ調性を逸脱した音楽が残されていると捉える、新しい見方である。このパラダイムとて万能ではないが、私にはこの方が遥かにしっくりくると感じるようになった。

これを採用するならば、我々がいるひとつ前の300年、つまり1600-1900年の中央にそびえ立ち、ジェズアルドの音楽が持っていてフレスコバルディに影のように潜んでいる逸脱を汲み取って新ヴィーン楽派の出現を予言しているのが、バッハである。

そしてこの1600-1900年は作曲家が自身感じたことを主題にして音楽を書いた時代であった。

従ってこの時代の鍵盤音楽は、バッハ以前の作品でも、個人的な感情の表出に最も優れた楽器であるピアノによって演奏してしまって一向に差し支えないと、私は思うに至っている。