メメント・モリ、あるいはピアノにかんするエトセトラ

あるピアノ愛好家が人生で出会ったもの・考えたこと

コヴァセヴィチのベートーヴェン:ソナタ全集(EMI)

長らく入手困難になっていた全集が2000円!で再版されたのを、衝動買いしてしまった。

このベートーヴェンの最大の特徴は、とくに緩徐楽章で聴かれる崇高な抒情美(まさにドイツ正統派の演奏スタイルと呼ぶに値する)なのだが、往年の独墺系巨匠ピアニストの場合には、余分なものをそぎ落としていった結果到達した境地としてこのような音楽が発せられるはずのものが、全く違った出方をしているという点である。

この演奏でコヴァセヴィチは、音楽が書かれた当初に持っていたであろうbrioさを、あたかも古楽奏者のような観点で譜面を読み直すことによって引き出して、従来の独墺系の音楽の感じ方を、根っこは残したまま現代化したかったに違いない。

しかし、その試みは私見では成功した(追従者が出るような形で一般化しえた)とはいいがたく、いくつかの急流楽章で彼独特の音楽の読みを表現したに留まっている。

そして、ここからがコヴァセヴィチ以外に成し得ないほど独特なのだが、いくつかの個所で往年の独墺系奏者とは全く違う音楽への挑戦が、別の個所でのドイツ的としか例えようがない抒情美の迫真を支えているのである。

それはあたかも、無調音楽と調性音楽を折衷して書いた現代音楽のいくつかが、無調の部分があるがために調性回帰する箇所が特別な美を放っているのと瓜二つの状況だ。