メメント・モリ、あるいはピアノにかんするエトセトラ

あるピアノ愛好家が人生で出会ったもの・考えたこと

吉田秀和さんの『フルトヴェングラー』(2)

本の中ごろに"フルトヴェングラーのケース"という表題の、示唆に富んだ話がある。

第2次世界大戦前夜、ヨーロッパでファシズムが台頭したとき、楽譜に書かれた内容を忠実に再現することを信条としたトスカニーニは自身の演奏芸術を祖国イタリアからアメリカへとそっくり"植え替え"ができたが、一方、楽譜の行間を読み解くような演奏スタイルのフルトヴェングラーは、祖国ドイツから自身を切り離すことができなかったという指摘だ。

吉田さんはこれを"芸術家が自身を発展させるために自分に合った『風土』を必要とするものと、そうでもないものがある"と結んでいる。

私はむしろ、この2人の取った行動の差異を、"作曲家が楽譜に記入するまでもなかった、読み方にかんする暗黙の了解、身振り、イントネーションは、作品の生まれた『風土』と切り離せなかった"と読み替えてみたい。

ピアノ作品の中で、この"作曲家が楽譜に記入するまでもなかった、読み方にかんする暗黙の了解、身振り、イントネーション"が決定的に違うのが、ベートーヴェンショパンだと思う。

そして戦後、1970年代を頂点として「楽譜に忠実な演奏」の御旗のもと作品を『風土』から切り離した演奏解釈が追及された。

この時期を代表するレコーディング・ピアニストはポリーニアシュケナージだと思う。
この2人の録音は、どちらかというとショパンの方が有名だが、よくよく眺めてみると、ショパンを"ショパン弾きのショパン"から一定距離を置き、同様にベートーヴェンを、ベートーヴェン弾きのそれから一定距離を置いて、各々に等しい距離間隔で再現していると感じる。