メメント・モリ、あるいはピアノにかんするエトセトラ

あるピアノ愛好家が人生で出会ったもの・考えたこと

イネガル(inegales)の思い出

※イネガル(inegales):記譜上では均等に書かれている2音を、一方を長く、もう一方を短く演奏する弾き方(wikipediaより)

初めてこのイネガル(inegales)と出会ったのは、ジャズピアノのCDを買いあさるよりずっと昔、クープランやラモーをピアノで弾いてみようとしたころよりもさらに昔の、大学3年生くらいの時であった。
このころの私は、クラシック・ピアノのCDを収集するだけでは飽き足らず、弾けもしないのに楽譜まで買い漁り出していた。そしてとうとう街のヤマハだけでは物足りなくなり、ついに都内の某大型楽譜店へと足を踏み入れたのだった。
(今思い返せば、人々が実店舗に足を運んでCDや楽譜を買っていた最後の時代だった)。

さて、初めて尋ねた某楽譜店では、その輸入楽譜の在庫の量に圧倒されると同時に、さっそくコレクター魂を刺激された。
そこで、綿密に収集計画を立てるべく、まずは取扱楽譜のカタログを入手して、あとはざっと見て帰ろうと思っていた。

ところが…、
ふと、一冊の水色の楽譜に、目が釘付けになった。

「フリードリッヒ・グルダ:ピアノ作品集」

なんと魔力を秘めたタイトルだろう!
しかも、目次をめくるとそこには"Play Piano Play"が収録されているではないか!

この曲は、グルダ自身の演奏が有名な、10曲からなるジャズテイストの練習曲である。当時の、カプースチンが本格上陸する以前のクラシック・ピアノ界にあっては、ジャズっぽい作品を弾きたいと思ったときに憧れの曲集であった。

私は胸躍らせて、1番の音楽を頭の中で鳴らしながら、ページをめくった。
しかし、そこにあったのは、当然ついている筈の付点がついていない只の八分音符と、inegalsの指示表記だった。

これが、イネガルとの初めての遭遇である。

ちなみに、グルダは同世代の独墺系ピアニストの中でもメカニックの完成度が抜きんでて高かったと思うのだが、私が初めてそれを実感したのは、有名なベートーヴェンソナタ全集ではなくて、この"Play Piano Play"だった。
そして当時の私には、同曲集の快速なナンバーを弾けるような技巧を持っておらず(今だってあやしいが...)、それでもスローなバラード調の3番だったら弾けるのではないかという淡い期待とともに譜面をめくった。

しかし、ページを開けて私は絶句した。
そこで私が目にしたものといえば、音符が書いてあるのは主旋律のみで、後はコードネームがふられているだけの譜面ヅラだった。
ようは、伴奏は演奏者が自由に創れということなのだろう。しかし音符を読んで指を動かすピアノ教育しか受けていない私には、まったく歯が立たない代物であった。

「ああ…」

落胆した私は、遠い方向に目をやった。
廊下の向こう側に、ジャズ・ポピュラー音楽のコーナーのおすすめ書籍が並べてあるのが目に入った。
『コード進行入門ブック』
『ピアノで覚えるコード進行』
サルでもわかるコード進行』
...
まるで、これらの書籍を一緒に買って勉強せよと言わんばかりの品揃え…。

「こっ、これはグルだ…!」

と、そのとき私が呟いたかどうかは、定かではない...。